田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(中) (2/3ページ)
「田中の中には、後藤田の人物、能力を買う一方で、後藤田を官邸に引き込むことで、ひとたび事があったときに警察を抑えられるかもしれない、また決して自分の“寝首”をかくことはない人物であるとの思いも、チラとはあったと推測される。
一方で、日本列島改造計画をレールに乗せるためには、各省庁間の利害調整もクリアしなければならず、その任を後藤田ならまっとうしてくれるという読みもあった。
田中からノーバッジでの官房副長官就任を懇請された一方の後藤田は、当初、固辞した。対して、田中はなお『内政、そして役所の人事は君に任せる』と、言わば全権委任を伝えて口説いた。結局、後藤田は、辞めたいときはいつでも辞めさせてもらうと条件を出し、引き受けることになった。
当時、田中内閣の人気はピーク、それをバックに後藤田は各省庁の次官、局長クラスを官邸に呼んでは、次々と田中のうかがう政策推進に与させていった。官邸の内閣官房には、二階堂進官房長官、山下元利・政務担当官房副長官はいたが、官房を事実上、取り仕切っていたのは後藤田だった」
★「この内閣は君で持っているのだ」
田中としては、この後藤田官房副長官人事は図星だったが、一方の後藤田は、官邸入りからわずか2カ月あまりでノーバッジの限界を感じ始めていた。ために後藤田は、その年(昭和47年暮れ)の総選挙に郷里の徳島からの出馬を決意、田中に申し出たが、このとき田中はこう言った。
「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう。次の選挙での出馬は約束する。それまで待ってくれ」
結局、後藤田はそれから2年後の昭和49年7月の参院選に、徳島地方区から出馬することになった。しかし、これは後藤田にとって、さんざんな目に遭う選挙になるのだった。
田中はもとより応援に来てくれたが、慣れない選挙から、後藤田陣営は大量の選挙違反を出し、結果は落選となった。合わせて、この年の暮れ、田中自身が金脈・女性問題で首相退陣を余儀なくされることになり、後藤田にとっては二重の痛手となったのだった。
警察トップを経験した者が選挙違反を出したという失態が、何よりもこたえたことは言うまでもなかった。