田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(中) (1/3ページ)
あの田中角栄が全幅の信頼を置き、自民党内でも長く多くの議員から畏怖、敬意を持たれた後藤田正晴には、「名補佐役」「名参謀」の名が残っている。トップリーダーに推されながらも、自らの分際を知り、補佐役に徹した数少ない稀有な人物でもあった。
現今の社会、企業などの組織でも、ある時期までは名アドバイザーなどとの声の中でナンバー2を守っていた人物が、突如、おだてに乗ってトップの座を目指すというようなことも多々あるが、後藤田は筆者のインタビューにこう答えてくれたことがある。補佐役としての「心得」が、浮かび上がるのである。
「私も警察庁長官として二十数万人の警察を率いた一国一城の主でもあったわけだから、大将になれないと考えていたわけでもない。しかし、よく考えてみると、人間にはおのずと“格”というものがある。トップになって輝く人間と、そうはいかない人間には、明らかに差があるのだ。
その補佐役の重要な役目の一つは、いかに情報を集め、それを処理し、トップに伝えるかということにある。しかし、これにはトップとの絶対的な信頼関係が不可欠になる。
なぜか。ある程度のポジションに就くと、とかく情報は耳ざわりのいいものだけが集まりだす。これをそっくりトップに上げたら、大変なことになるということだ。だから、悪い情報も入るような体制をつくっておく必要がある。
たとえトップにとって好ましくない話でも、情報として伝えておかないと、あとで取り返しのつかない問題に発展してしまう。トップに耳の痛い話を上げられるかどうか、その勇気がないと補佐役は務まらないということだ」
つまり「黒子」「匿名」としての自覚、情熱がなければ、真の補佐役、参謀的役割に徹することは難しいとしていたのだった。
さて、若き日、議員と官僚との関係から予算陳情をきっかけに気脈を通じていた田中と後藤田だったが、田中は政権を取った昭和47(1972)年7月の第1次内閣で、一方的に後藤田を口説き、ノーバッジで事務担当の内閣官房副長官に据えてしまった。
もとより、田中は後藤田の見識、ピカ一の実務能力、原理原則に厳しく物事の判断の座標軸に一切のブレがなく、加えて高潔の士であることを買ったということだが、当時の官邸詰め記者にはこんな証言もあった。