人斬り鍬次郎と呼ばれた、幕末の知られざる人斬り!新選組・大石鍬次郎

幕末には人斬りと呼ばれた人物がいました。実際に誰だろうと思い浮かべてみると「幕末の四大人斬り」として名が知れ渡っている岡田以蔵や中村半次郎、河上彦斎、田中新兵衛の誰かが挙がると思います。
しかし、上記の4名の他に人斬りと呼ばれていた人物がいました。それは新選組にいた大石鍬次郎(おおいし-くわじろう)で「人斬り鍬次郎」の異名で多くの攘夷志士から恐れられていました。
今回は新選組で唯一人斬りの名がある鍬次郎が人斬りと呼ばれた理由や所属していた隊などを紹介します。
鍬次郎が新選組に入隊したのは元治元年(1864)の10月の江戸で行われた隊士の二次募集のことです。
その年の6月には池田屋事件が起こっており、新選組は名実ともに有名になっていました。比較的遅い入隊にも関わらず、鍬次郎は剣の腕が立っていました。
どれくらい優れていたのかというと三段突きで馴染み深い沖田総司と並び立つほどでした。
しかし、新選組と敵同士だった阿部十郎からは「剣の腕は立つが、思想的背景がなくただ人を殺すだけの残酷な人物」と評されています。
数々の戦闘と暗殺により人斬りの異名へ入隊後は総司率いる一番隊に配属されます。慶応2年(1866)に起きた三条制札事件では原田佐之助らと共に10人の隊士を率いて出動しています。
しかし、他の隊士たちとの連携不足で到着が遅れてしまったため、これといった活躍は出来ませんでした。
翌年の慶応3年(1867)に起きた油小路事件では伊東甲子太郎を暗殺し、大きな活躍を見せます。
その後は同年12月に起きた天満屋事件(てんまやじけん)では斎藤一らと共に紀州藩士・三浦休太郎の護衛に当たりました。休太郎自身は顔面に傷を負ったものの、命に別状はなく無事に任務を果たします。

数多くの戦闘を経験し、伊東甲子太郎も暗殺した鍬次郎はいつの間にか「人斬り鍬次郎」の異名を持つようになりました。
そんな異名を持っていた鍬次郎でしたが、入隊間もない隊士に隊務について教えていたこともあり、面倒見のいい一面も持っていました。
暗殺の代償は死慶応4年(1868)に起きた鳥羽伏見の戦いで敗北した新選組は江戸で帰還し、甲陽鎮撫隊と名を変え甲州へ進軍します。
鍬次郎もそれに従いますが、同年3月に起きた甲州勝沼の戦いで敗北し五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬)での再屯集の後に脱走しました。
脱走後は妻子と共に江戸に潜伏していましたが、新選組時代に仲の良かった三井丑之助に騙され捕まってしまいます。
捕縛後の鍬次郎には新政府に坂本龍馬や伊東甲子太郎暗殺の嫌疑をかけられます。

坂本龍馬暗殺は否定しましたが、伊東甲子太郎暗殺を認めたので、鍬次郎は明治3年(1870)に斬首刑となり33歳で亡くなりました。
最後に幕末の四大人斬りの他に人斬りの異名を持っていた人物が新選組にいたのは驚きでした。
人斬り集団と言われていた新選組で人斬りの異名を持っていたので、鍬次郎は相当腕が立っていたと思います。
鍬次郎自身も出世欲が強かったので、一種の宣伝としてこの異名をほしいままにしたかもしれませんね。
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