逆の意味で使ってませんか?忠臣蔵で有名な堀部安兵衛「おっとり刀」の語源を紹介
ある時、甲さんがこんな事を言いました。
「乙さんは『おっとり刀』だからなぁ……交渉に行かせて大丈夫かなぁ」
乙さんはとてもお淑やかな(おっとりとした)方なのでそう言ったのでしょうが、語感が似ているからか、本来と真逆の意味で使われていることが意外に多いものです。
おっとり刀の語源には諸説ありますが、今回はその一説として「忠臣蔵(ちゅうしんぐら。吉良邸討入り)四十七士」で有名な堀部安兵衛(ほりべ やすべゑ)のエピソードを紹介したいと思います。
安兵衛、義叔父の助太刀に「おっとり刀」で駆けつける堀部安兵衛として有名な彼は、その本名を武庸(たけつね)と言い、江戸時代前期の寛文十1670年に越後国新発田藩(現:新潟県新発田市)で中山弥次右衛門(なかやま やじゑもん)の長男として誕生しました。
生まれてすぐに母を亡くし、14歳の時(天和三1683年)に主家を追われて浪人となった父を亡くして孤児になるなど、苦労続きの人生でした。
しかし剣術の腕前は一流で、元禄元1688年に19歳で江戸に出ると、小石川牛天神下にあった堀内正春(ほりうち まさはる)の道場で頭角を現し、直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝となります。
そんな折、義叔父の盃を交わしていた同門の菅野六郎左衛門(すがの ろくろうざゑもん)が高田馬場で果し合いをすることとなりました。
「拙者に万一の事あれば、仇討ちと妻子の世話をお頼み申す」
後事を託そうと義理の甥を訪問した六郎左衛門でしたが、折悪しく安兵衛は深酒をしており、泥のように眠っていました。
そこで仕方なく六郎左衛門は書置きを残して果し合いに赴き、酔いから醒めた安兵衛は書置きを見るなり「すわっ、一大事!」と跳ね起き、刀を「押っ取って」助太刀に駆けつけた……これが「おっとり(押取)刀」の語源とも言われています。
「おっとり刀」で18人斬り?安兵衛の大活躍「押し取る」とは腕を突き出して対象を押すように取ること(※)を言い、この場合は「悠長に刀を差している暇もない」切羽詰まった状態を指します。
(※)同時に「おっ」は接頭語として「おっぱじめる(始める)」「おったまげる(魂消る)」などのように言葉を強める意味もあります。
「おっとり刀」と言う語感から、何となく切れ味の鈍そうな刀を連想しがちですが、実際は「とるものもとりあえず(刀を差す暇もなく)」駆けつける、とりかかる等の様子を表す言葉となっています。
ちなみに安兵衛が酔いつぶれていたエピソードは後世の創作で、実際にはきちんと六郎左衛門の話を聞いた上で助太刀を申し出ています。
さて、果し合いは安兵衛の「18人斬り(これも創作。実際には3人ほど)」によって勝利するものの、六郎左衛門は命を落としてしまいました。なにぶん律義者な安兵衛ですから、きっと遺された妻子の面倒はしっかり見てあげたのでしょう。
歌川国貞「堀部弥兵衛(弥次兵衛)と堀部安兵衛(弥津兵衛)」Wikipediaより。
この「高田馬場の決闘」によって名を上げた安兵衛は、赤穂浪士の堀部弥兵衛金丸(ほりべ やへゑあきざね)に見込まれてその婿養子となり、やがて吉良邸への討入り(元禄赤穂事件。元禄十五1702年12月14日~15日)でも大活躍することになります。
もちろん、この一世一度の大勝負に際しては周到な用意で臨み、決して「おっとり刀」で駆けつけるような失態は演じなかった筈です。
※参考文献:
山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』中経出版、2003年12月
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