田中角栄「怒涛の戦後史」(14)名補佐役・後藤田正晴(下) (2/3ページ)
交番は、どこの誰は何党支持か、夫婦仲が悪く夫は懸命に働いているのに妻はパチンコばかりしているなど、住民の動向、すなわち“個人情報”をすべて掌握している。
全国に強大無比の人脈を持つ田中自身が全力投球したのは言うまでもなかったが、後藤田はこうした情報などをフル回転させ、大平、中曽根を総裁選勝利に導く原動力になった。
結果、大平は戦前予測では福田の前に及ばずだったが、これを逆転、中曽根は圧勝で政権の座に就き、田中の影響力はしばし温存されたのであった。
とりわけ、昭和57年11月発足の中曽根内閣には、田中派からじつに6人が入閣を果たし、田中の影響力のあまりの強さに、この中曽根内閣は「田中曽根内閣」と揶揄されたものだった。後藤田は、田中の強い推輓で官房長官のポストに就いたが、もとより、中曽根が“勝手な動き”をしないための「お目付け役」の意味合いがあったのである。
★「田中派首相候補の一人」
しかし、後藤田は単なる「お目付け役」ではなかった。中曽根政権発足から約1年後の9月1日、いわゆる「大韓航空機撃墜事件」が発生した。事と次第では北の海の緊張に日本も巻き込まれかねない戦争危機に直面したが、後藤田は官房長官として「危機管理」の前線指揮官となり、外務省、防衛庁、内閣調査室などに的確な指示を与え、危機を回避してみせたのだった。
事件は、1日午前3時29分(日本時間)、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空のボーイング747ジャンボ機が、ソ連(現・ロシア)サハリン沖上空でソ連機のスホーイ15戦闘機のミサイル攻撃を受け、モネロン島付近に墜落、乗員29人と日本人28人を含む15カ国の乗客240人全員が死亡というものだった。
こうした後藤田の巧みな政権運営を含めた「危機管理」により、中曽根内閣は3期5年にわたる長期政権をまっとうすることになった。中曽根のあと、最後まで田中とソリの合わなかった竹下登が政権に就くことになるのだが、中曽根の任期半ばの昭和60年2月、田中が脳梗塞で倒れた。それを機に、竹下は田中派の大勢をまとめ上げて政権の座に就いた。
生前、田中は田中派の会合、パーティーなどで、こう力を込めて口にしていたものだった。