正体は忍者だと!?人気スポット・新大久保にかつて住んでいた百人の鉄砲隊とは?

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正体は忍者だと!?人気スポット・新大久保にかつて住んでいた百人の鉄砲隊とは?

江戸城には、「百人組(鉄砲百人組)」といって、根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)の4組の組織が常時交代で番所に詰めて警護していました。

その番所のことを「百人番所」と呼び、今も江戸城の中に当時のままのその姿を確かめる事ができます。伊賀や甲賀は忍者を輩出した里として有名なため、百人組の実態は忍者だったのではないかともいわれています。

百人番所で江戸城を警護していた100人組織「百人組」実態は忍者だったのか!?

歌川豊国 画

その「百人組」とは、いったいどんな者たちだったのでしょうか?

根来組

天正13年(1585)に根来寺の衆徒が豊臣秀吉に討伐されたのち、徳川家康に浜松で召し出されて組織された根来組。

伊賀組

伊賀(三重県)の歴代服部半蔵が率いた武士の集団が、伊賀組です。服部半蔵といえば、徳川家に仕えた忍者の名として、忍者の中でも最も有名な名前なのではないでしょうか。

お察しの通り、この伊賀組こそは徳川家康が本能寺の変の後逃亡した際に道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成されていたのです。彼らは百人同心、鉄砲隊として現在の新宿御苑前周辺に巨大な組屋敷を与えられ、江戸城警護のため日々鍛錬を積んでいました。

甲賀組

伊賀組と並んで、忍者の里として非常に有名なのが甲賀の国。その甲賀忍者の末裔の中から選ばれた与力10人、同心100人が甲賀組です。彼らは千駄ヶ谷に組屋敷を与えられ、現代は東京青山のおしゃれな街並みに変身した権田原周辺に鉄砲の訓練場を有していたのだとか。

とはいえ同心の生活の実態は、内職をしないと成り立たないほど窮乏しており、そのため甲賀組の同心には内職の傘張りの熟練者が多かったのだそうな。

二十五騎組

彼らは普段、現在の新宿百人町、ちょうど新大久保駅の周辺にあった組屋敷に暮らしており、順番が回ってきたら百人番所に詰めて、警護の仕事を行っていました。

新大久保駅  Wikipediaより

新大久保駅周辺の古地図には、「百人組同心大縄地」の文字を確かめる事ができます。百人町という地名も、この百人組から由来しています。

また、大久保周辺はつつじの名所ですが、実はこの百人組も内職としてつつじの栽培を行っていて、そうした評判が広まって、やがて名所となっていったようです。

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