田中角栄「怒涛の戦後史」(15)元首相・中曽根康弘(中) (2/3ページ)
第3次内閣で防衛庁長官ポストを提示すると、もとより中曽根は拒むことはなかったのだった。
こうした中で、かつての佐藤批判はどこ吹く風、中曽根の党内外に向けての弁は相変わらずソツがなく、「私は沖縄(返還)問題が解決するまでは佐藤総理を守る」と“宣言”した。すると、これがまたいたく佐藤を喜ばせ、次の改造人事ではついに党三役の一角、総務会長のイスを手に入れることにつながった。この閣僚ポスト2回を経験し、党三役の一角も占めたことで、中曽根のうかがう先には、ぼんやりながら「首相」の2文字が見えだしたようだった。
★「実力者は皆“風見鶏”」
しかし、中曽根の「政界遊弋史」は、なおも続いた。佐藤が退陣、そのあとを田中角栄と福田赳夫が争う熾烈な「角福総裁選」が勃発すると、群馬出身の中曽根は、当初、同郷の福田を担ぐとみられていた。ところが、最後は自らの総裁選立候補も取りやめ、田中の支援に回ってしまった。
この“論功行賞”もあり、田中は第1次、第2次内閣を通じて中曽根を通産大臣、自民党幹事長として優遇した。これはまさに、政権基盤の強化を狙っての“抱き込み”を図った格好だった。
だが、中曽根“風見鶏”は、常に全開である。田中が退陣、その後、三木武夫、福田赳夫を経て、田中の「盟友」大平正芳が政権を獲得したが、総選挙で敗北すると党内で「辞めろ」コールの責任論が噴出した。中曽根はこれに同調して、当初は「大平おろし」の声を挙げたが、途中から、動きは「大平支持」に変わったのだった。
反主流かと思えば、いつの間にか主流派の地位を占め、この「大平支持」が決め手となり、中曽根は「闇将軍」田中から一応の“お墨付き”を得た。
こうした類いまれなパフォーマンス、政界の“風見鶏”ぶりがいよいよ実を結ぶことになったのは、昭和57年11月の自民党総裁選であった。ここで最大派閥である田中派の支援を受け、ついに政権の座に就くことができた。もとより、田中が自らの影響力を残せる政権としての支持にほかならなかったが、中曽根にとっては、一貫して首相の座を目指しての政界入りから、35年で得た戴冠であった。