爆笑問題×渡辺正行、2020年初笑い対談!「スターを生み続けた『ラ・ママ』」
『週刊大衆』で大好評連載中の『コント赤信号 渡辺正行 スター芸人たちの“笑いと涙”』の特別編、渡辺リーダーとお笑いコンビ・爆笑問題の2人との対談の後編。
前回に引き続き、30年来の関係の両者が、雌伏の時代、お笑い論、そして爆笑の“禁断話”まで熱く語ってくれた!
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ーー1988年、リーダー主催の『ラ・ママ新人コント大会』でデビューした爆笑問題は、順調に仕事をこなしていたものの、90年に所属事務所から独立後、不遇な日々を送ることになったんですよね。
渡辺 大変な時期は、どれくらいあったの?
田中 3年弱ですかね。
渡辺 長いよね。
太田 まあ、今考えると、そうですね。
田中 すっかり仕事がなくなって……。テレビはNHKとテレビ東京だけは出演できたんですけど、それ以外は一切、ダメでした。
渡辺 辛かっただろうね。
田中 月1回、『ラ・ママ』で漫才をやって、たまに、NHKとテレビ東京。だから僕、昼間はずっとコンビニでバイトしてました。完全に、なじんじゃいましたよ。
渡辺 言ってたもんね、「“店長にならないか?”と誘われた」って。
太田 あのときは唯一の出番が『ラ・ママ』だったから、ホントにありがたかったです。
渡辺 うちは全然問題ないからね。
太田 その間に、浅草キッドや松村邦洋君、バカルディ(現・さまぁ〜ず)、ホンジャマカとか、同世代の芸人がテレビで、どんどん頭角を現してきて……。
田中 そうだったね。
渡辺 あの頃、爆笑は、下ネタとか危ないネタとかガンガンやってたよね。
太田 とにかく放送できないネタを。今と違ってネットもないし、なんでもありだったですからね。
渡辺 でも、俺はそれでも構わないと思っていて。とにかく人前に立って、笑いを取る感覚を覚えておくことが重要。芸人としてブランクができると分からなくなっちゃう。その感覚さえ忘れていなければ、ネタだけ変えていけばいいんだから。
■太田 いつしか客席全体が「ああ、もう古い……」っていう雰囲気に
太田 リーダーはいつも、「いいよ、そのままで」って言ってくれたから、ホントに心強かったですね。
渡辺 まあ、2人の心配はしてたけど、2人の人生だから自分たちでどうにかするしかないんだよね。だから、俺ができたのは、そういう場を提供して、何をするのか見ててあげるぐらい。俺はよく「東京の芸人を育てた」とか言われたりするんだけど、実は見てただけなんだよ。爆笑問題だって育ててないし。
太田 そうなんです。俺らが勝手に育っただけで(笑)。
渡辺 そこは「そんなことないです」だろ(笑)。
太田 でも、当時、俺らは一応トリで出してもらってたんだけど、いつしか客席全体が「ああ、もう古い……」っていう雰囲気になっちゃったんですよね。
田中 ウッチャンナンチャンやジャドーズとか主力メンバーも『ラ・ママ』を卒業して、僕らもかなり古株になってたからね。
太田 リーダーと一緒に司会をやってた構成作家の植竹(公和)さんからも、「なんか漫才が古いな。てんや・わんやみたいだな」って言われたんだよ。
田中 てんや・わんや(笑)。
太田 そのことは、いまだに忘れてないからね。植竹さんに会うたびに、ずっと言いたい!
渡辺 相手が若いときに、そういうことを言っちゃいけないんだね〜。言われたほうは、ずーっと覚えてるもんだよね(笑)。
田中 『ラ・ママ』に来るお客さんは若い子が多くて、何を一番の目的にしてるかというと、芸人の先物買い。「自分が見つけた」という思いが強いから、新しい物や旬の物を追い求める傾向があったよね。
太田 フォークダンスDE成子坂とかね。
田中 それこそ、ウッチャンナンチャンでも、テレビに出るようになったら興味を失われてたし。テレビから呼ばれなくなった僕らだって、「どうせテレビに1回行った人たちだし」っていう扱いだった。
太田 もう終わった人たちっていう。
田中 そんな空気は感じられたよね。
対談の続きは1月4日発売の『週刊大衆』1月20日号で。