【門松にまつわる一説】武田氏にリベンジ!門松の竹をナナメにぶった斬った徳川家康のエピソード

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【門松にまつわる一説】武田氏にリベンジ!門松の竹をナナメにぶった斬った徳川家康のエピソード

昔から「七草の風に当てるな」と言われるように、多くの家では七草粥を食べる1月7日まで(その前日、1月6日)にはお正月飾りを片づけるようですが、家々の門前を華やかに飾っていた門松が見えなくなると、いよいよお正月の終わりを感じて少し寂しいものです。

ところで、その門松の中央を占める竹について、こんな質問がありました。

竹の先端が水平に切られた門松。

「たまに竹の先が水平に切ってある門松を見るけど、あれはどういう意味があるの?」

今どき門松の竹と言えば、斜めに切って竹槍のようになっているものが多い中で、竹を水平に切っている門松も少数派?(※地域によって異なります)ながら、センスフルな存在感を放っています。

そこで今回は、門松の竹にまつわる一説を紹介していきたいと思います。

三方ヶ原の惨敗、家康を嘲笑う勝頼の歌

時は戦国末期の元亀三1572年12月22日、「甲斐の虎」こと武田信玄(たけだ しんげん)が徳川家康(とくがわ いえやす)と織田信長(おだ のぶなが)の連合軍を遠州三方ヶ原(現:静岡県浜松市)で撃破した「三方ヶ原の戦い」。

戦上手として無敗を誇っていた家康にとって、生涯唯一の敗北となった苦い思い出。

「この恨み、晴らさでおくべきか!」

三方ヶ原で惨敗した家康。Wikipediaより。

あまりの悔しさに傍の竹を袈裟(けさ。斜め)に斬り落とし、家臣に命じました。

「来年から、門松の竹は皆このように袈裟斬りと致せ!」

竹を「武田」に見立てることで、三方ヶ原の悔しさを忘れず、リベンジの意志を新たにしたところ、これを知った武田勝頼(たけだ かつより。信玄の嫡男)がこんな歌を送って寄越したそうです。

「まつかれて たけたくひなき あしたかな」

【読み下し】松枯れて 竹、類なき 朝(あした)かな」
【意訳】松=松平=徳川は枯れて衰え、竹=武田は類なく栄えるであろう

「おのれ武田め……!」

この歌を知って家臣たちは怒り狂いましたが、家康はニヤリと笑って返書の筆をとりました。

家康の機転で意趣返し!武田にリベンジを達成

「御屋形様!斯様(かよう)なる侮辱を受けながら、何を笑(わろ)うておいでか!」

家康は家臣たちの怒りも気にとめず、武田への返歌(へんか。送られた歌に対する返事の歌)をスラスラと詠み上げました。

「まつかれて たけたくひなき あしたかな」

【読み下し】松、枯れで 武田首なき 朝かな
【意訳】松は枯れず、武田の方こそ首がなくなる=滅ぶだろう

「松は枯れなんだか……」滅びゆく武田勝頼。歌川国綱「天目山勝頼討死圖」。

当時、和歌には濁点をつけず、平仮名のみで書くのが常識でしたから、家康は自分に都合よく濁点をつけ「竹、類(たくひ)なき」を「武田(たけた)、首(くひ)なき」と詠みかえたのです。

また、「枯れて」は「枯れで」と濁点をつけることで「枯れずに、」と真逆の意味になります。

これを聞いた家臣たちは、俄かに喜色を取り戻し「次こそは武田を討つべし!」と大いに気勢を上げたとのことです。

果たして家康たちは信長の助けもあって天正十1582年に武田氏を滅ぼし、三方ヶ原のリベンジを7年越しに果たしたのでした。

終わりに

こんなことがあって以来、徳川家の影響が強い地域では門松の竹を袈裟斬り(削ぎ切り)に、別にそうでもない地域では古来の水平切り(寸胴切り)を続けたそうです。

削ぎ切りの門松。断面の白さが周囲に映える。

やがて時代が下るにつれて切り口の断面が松の緑を引き立てて彩りもいいということで、削ぎ切りの人気が広まったと言われますが、武田家にゆかりの深い地域や人々、また古来の伝統を重んじる向きでは寸胴切りの門松も継承されています。

※参考文献:
加藤友康編『年中行事大辞典』吉川弘文社、2009年3月1日

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