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死にはいろいろな死がある。 (3/5ページ)

心に残る家族葬

これは終戦前後の1945〜46(昭和20〜21)年に旧三菱株式会社中川工場で使用されていた、最大内径4.27m、厚さ16mmの鉄板32枚を鋲打ちして球型に成形した巨大な蒸釜(むしがま)だ。釜の中に書き古しの反故紙(ほごがみ)5tと水9000lを入れ、毎分1回転の速度で回転させながら蒸気を注入して蒸し、紙の繊維を解きほぐして、原料であるパルプに再生していたものだ。

■東京都東大和市の旧日立航空機株式会社変電所の場合


そして同じく、東京都東大和市の東大和南公園内には、市の指定文化財である、旧日立航空機株式会社変電所がある。当時の北多摩郡大和村一帯では、江戸期に行われていた大麦・小麦・粟・ヒエ・蕎麦・大根などの農業に加え、明治半ばからは養蚕がさかんに行われ、とても「静か」な村だった。しかし1938(昭和13)年、地域の区画整理が行われ、後に日立航空機と改称された、東京瓦斯電気工業立川工場と、そこに勤める社員用住宅が建てられた。それから工場そのものは拡張を続け、翌年には従業員数13000人を数える巨大な軍需工場となった。今日残る変電所は、高圧電線で送られてきた電気を減圧し、工場内へ送電するための施設だった。

しかも、第2次世界大戦末期になると、ここばかりではなく、近在の立川市や昭和村(現・昭島市)などにも巨大な軍需工場が点在していたことから、連合軍から狙われていた。しかも終戦の年の1945(昭和20)年2月17日、4月19日、24日と3度の爆撃によって、工場の従業員や勤労動員の学生に加え、周辺住民など、100人に及ぶ犠牲者が出た。工場全体の8割が壊滅したが、変電所は、窓枠や扉などは爆風で吹っ飛んだものの、建物そのものは致命的な損傷を受けることはなかった。戦後は、工場の生産体制は変わったものの、建物そのものは取り壊されることなく、1993(平成5)年まで、主要設備機器を新しくしながら、工場への送電を続けていた。ただ、壁面には、生々しい傷跡が無数に残ったままで、連合軍側の攻撃の激しさを物語っている。

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