田中角栄「怒涛の戦後史」(15)元首相・中曽根康弘(下) (2/3ページ)
そうした中曽根政権に対する国民の最も大きな拍手は、昭和58(1983)年9月1日に起きた「大韓航空機撃墜事件」への対応であった。事件は、日本時間午前3時29分、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空のボーイング747ジャンボ機が、サハリン沖上空でソ連のスホーイ15戦闘機のミサイル攻撃を受け、モネロン島付近に墜落、乗員29人と日本人28人を含む15カ国の乗客240人全員が死亡するというものだった。
日本は、どう対応すべきか。事件には、複雑な要素が多々含まれていた。日本人乗客は直接の当事者ではなく、軍事大国であったソ連を刺激することは北の海での緊張が懸念される一方、当時の防衛庁がつかんでいた情報を明らかにすることは、国の防衛機密をオープンにしてしまうことになる。一つ対応を間違えれば、中曽根内閣は吹っ飛びかねないし、場合によってはソ連との戦争に巻き込まれかねないとの懸念もあった。
結果的には、中曽根首相が圧倒的信頼を置いた後藤田官房長官に対応の全権をゆだね、これが功を奏した形で、あらゆる懸念を回避できたのだった。
★「真剣勝負」が共通の二人
事件対応での後藤田は、警察庁長官、国の「危機管理」のトップとしての実力を存分に発揮した。外務省、防衛庁、内閣調査室を中心に大韓航空機の交信記録をはじめ、あらゆる情報を官邸に上げさせ、後藤田自身が解析、対応を提示した。
結果、当初は知らぬ存ぜぬの対応だったソ連側も、次々と日本側に攻め立てられ、最終的には「民間機だとは認識できなかった」との“弁解入り”ながらも、撃墜の事実だけは全面的に認めざるを得なかったのである。
こうした過程で、後藤田が事にあたった各省庁に命じたことが、一つあった。「日本は大国にあらずという意識で対応せよ」と。これは同時に、時にタカ派としてナショナリズムに傾きかねない「主君」中曽根に対する、「名参謀」としての後藤田の“警告”でもあったのである。
中曽根政権は、こうした後藤田の支えもあって5年の長期をまっとうした。そのさなか、影響力の温存をうかがって中曽根政権誕生に力を貸した田中が倒れ、これをもって中曽根は“独り歩き”を始めたということでもあった。