虚無僧ファッションが何故、江戸庶民に受け入れられたのか?鈴木春信の魅力 その5パート4
前回に引き続き、江戸の浮世絵師・鈴木春信の「風俗四季哥仙」から「風俗四季哥仙 卯月」をご紹介します。
これまでの記事
虚無僧がイケてる?江戸時代に実際にあったファッションとしての虚無僧スタイル!鈴木春信の魅力 その5 虚無僧が何故おしゃれ?江戸時代にあったファッションとしての虚無僧スタイル!鈴木春信の魅力 その5 パート2 虚無僧ファッションが何故、江戸庶民に受け入れられたのか?鈴木春信の魅力 その5パート3「風俗四季哥仙 卯月」の虚無僧ファッションが、何故江戸庶民に受け入れられたのか。今回は江戸歌舞伎一番の男伊達“助六”から、この時代の価値観を探ります。
助六[花翫暦色所八景] (助六)出典:都立中央図書館特別文庫室所蔵
『助六』といえばこの立ち姿を連想する人は多いでしょう。江戸時代、最高の人気を誇る演目『助六』は、“粋”という洗練された江戸文化を具現化した歌舞伎の最高傑作の一つで、のちの日本文化芸能に多大なる影響を与えました。
この『助六』の姿はある意味で虚無僧の投影でもあります。手にする傘は天蓋、腰には尺八です。『助六』は歌舞伎の形式的には“曽我もの”になるのですが、“曽我もの”から派生して独立した作品(つまり曾我兄弟の仇討ちの事実とは関わりがなく、その形だけを借りた)と言えます。
『助六由縁江戸桜』のあらすじを簡単にご紹介すると、舞台は江戸の一番裕福だった頃の吉原の郭の前です。主役の“花川戸助六”は、若くて喧嘩が強くて吉原でも一番人気の色男であり侠客です。揚巻太夫という花魁と恋仲です。
そこに“意休”という多分裏社会の親分のような趣味人でもあるような風格の老人が登場します。この“意休”も揚巻太夫が好きなのですが相手にされません。
助六は毎日吉原に入り浸っては喧嘩三昧。すると貧しい身なりをした“白酒売り”が助六に声をかけます。見るとその白酒売り驚いたことに、実は助六の兄の“曽我十郎”です。助六は実は弟の曽我五郎だったのです。
「花川戸助六 河原崎権十郎・白酒売り 中村芝翫」画:歌川豊国
兄の十郎は、育ての親が家宝の「友切丸」を盗まれて切腹の危機に追い込まれているというのに、吉原で何をしているのだと諭します。
しかし弟の五郎は、吉原は様々な男の来るところ。喧嘩を売って刀を抜かせて「友切丸」を探していたのです。その刀を持っているのは実は・・・というお話です。
実際に“助六”の衣装と同じく小口の紋付を着流し、鮫鞘の一腰に印籠1つ、下駄を履いて吉原大門を入る人物もいました。両側の茶屋の女房が出てきて、「そりやこそ福神様の御出」と騒いだ故、いつしかこの姿を「今助六」というようになったといいます。
鈴木春信も「風流おどり八景 夜雨の助六」という、春信らしい“助六”を描いた作品を残しています。
江戸の美意識
鈴木春信が『風俗四季哥仙』を描いていた時代は、江戸の町人文化が豊かに花開いた時期でした。「粋」や「いなせ」、「通」などの江戸の美意識が追求された頃です。
富める者たちは吉原に通って途方も無い大金を使い、または歌舞伎や文楽のほか俳諧や能、踊りや芸事などにも夢中になりました。
俳諧の世界では、旗本や豪商などが金に糸目をつけず、浮世絵に多色摺りという画期的な技術を開発し、飛躍的に浮世絵の世界を発展させて豪華な絵暦交換会を行いました。鈴木春信も当時の知識人をパトロンとして浮世絵をの芸術性を高めていったのです。
歌舞伎と浮世絵の関係は強く、江戸の庶民たちも浮世絵を買い求め、憧れたり真似をしたりして楽しみました。
そんな中でも歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』や『曾我もの』、『助六』などが大人気を泊した博したのは何故でしょうか。
この3つの作品に共通するのは「仇(あだ)討ち」です。
恋人が殺されたから復讐する、というのは「仇討ち」とは言いません。基本的には武士階級にのみ、父母か兄もしくはそれと同等以上の親族が殺害された場合、「仇討ち」は幕府によって認められていました。
『仮名手本忠臣蔵』では喧嘩両成敗が無視され、浅野内匠頭だけが切腹させられるという殿の無念を晴らすため、家来たちが様々な犠牲や苦労ののちに「仇討ち」を果たします。そこには忠義と気持ちと無私の心しかありません。
『曾我もの』や『助六』では何の咎も無いのに殺害された父親の仇を取るため、曽我兄弟は不遇な境遇の中、艱難辛苦をなめつくした果てに「仇討ち」を果たします。
仇討ちを選んだ者達は、苦労こそすれど何の見返りもありません。「仇討ち」で義を果たしたという達成感はあれど、野の露と消えていく身です。
「仇討ち」を描く作品は、権力から与えられる試練や、人間の内面やその人が生きる社会の姿を映し出しているのです。
江戸の人々は、仇討ちをするため虚無僧となってまで身を隠し、時には義理に悩み、さまざまな苦労を重ねる人の心のひだに自分の心を重ねていったのではないでしょうか。
だからこそ“虚無僧姿が格好いい”と成り得たのだと思います。
鈴木春信は『風俗四季哥仙 卯月』以外でも「伊達虚無僧姿の男女」など他にもいくつか虚無僧姿を描いた作品があります。
関ヶ原の戦いから150年以上が経ち、徳川幕府のもと平和な世の中が続き、武士が戦のために刀を抜くということもなくなりました。幕藩体制が形をなしてきた時期でもありましたが、政治腐敗も進んできた時代でもありました。
鈴木春信は伊達虚無僧が流行る世の中に、江戸の人々の心を見ていたのではないでしょうか。
完。
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