「巨人軍重大事件」長嶋茂雄や王貞治も知らない裏真相

日刊大衆

写真はイメージです
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 読売巨人軍が創設されたのは1934年のこと。今年で86年となる。2月からは各チームとも春季キャンプを開始、2020年シーズンが本格始動するが、それを目前にして巨人栄光の八十余年の歩みから、世間の耳目を集めた30の衝撃事件の舞台裏に迫ってみたい(文中=一部敬称略)。

 衝撃事件の1発目は「球団初の最下位」から。現役引退後すぐに監督に就任した長嶋茂雄。その監督1年目の1975年シーズンは、惨憺たる結果だった。「チームは“V9の燃えカス”のような状態。主力選手は高齢化しており、誰が監督をやっても同じだったでしょうね」(古参記者)

 実際、75年シーズンのチーム防御率は最下位、打率と本塁打数は5位と、V9時代は見る影もない。当時の主力選手の一人は匿名を条件に、こう明かす。「長嶋さんは前任の川上哲治監督の管理野球を改め、“クリーンベースボール”を掲げました。ただ、これが誤解されたフシがあって、気が緩んで成績を落とした選手もいましたね……」

 長嶋巨人の4番を担った王貞治は、最下位が決まると記者に、こう独りごちた。「ミスターは、原節子みたいにスパッと辞めるべきだった。すぐに監督を引き受けちゃったもんだから、こんなに苦労するんだよ」

 それでも、“燃える男”長嶋は諦めなかった。その結果、76、77年とペナント優勝を飾り、78年も2位につける。ただ、この年のオフ、「江川卓“空白の1日”事件」が起きる。

 作新学院の怪物として甲子園を沸かせた江川は、阪急の1位指名を拒否し、法政大に進学。4年後の77年ドラフトでは、巨人への入団希望を表明して臨んだ。「作新学院の学院長で自民党の副総裁だった船田中氏は、各球団オーナーに指名しないよう根回しをしていました。しかし、ライオンズが1位指名を強行したため、江川は南カリフォルニア大学に野球留学することになったわけです」

 その1年後――。「江川が突如、船田氏の事務所で巨人への入団発表を行ったんです。巨人は野球協約を徹底分析し、第138条に“抜け穴”があることを発見します。ライオンズの交渉権がドラフト前々日に失効することを牽強付会して、“ドラフト会議の前日は、選手は自由の身分”だと強弁したんです」(当時を知る球界関係者)

 これが世に言う「空白の1日事件」だが、絵を描いたのは船田の懐刀だった秘書の蓮実進氏だった。この姑息とも取れる巨人のやり口に世間は激高。江川のアンチファンを多数生むことになったが、事件の“真の首謀者”はと言うと……。「ミスターです。是が非でも江川が欲しいというから、巨人はあそこまで大掛かりな謀略を仕組んだんです。ミスターの“欲しい欲しい病”は、この頃からだったんですね(笑)」(同)

■清原和博と桑田真澄をめぐる「KKドラフト事件」

 続いては、「非情の長嶋監督解任事件」。79年に、5位に甘んじた巨人。危機感を募らせたミスターが強行したのが、有名な“地獄の伊東キャンプ”だった。「そのかいあって翌年は3位に浮上。Aクラス入りが監督続投の条件とされていたため、ミスターは来年は優勝と意気込んでいたんです」(長嶋を知る人物)

 ところが球団は一転、長嶋解任を決定する。「動いたのは川上さんでした。川上さんは、シーズン中に藤田元司や国松彰、瀧安治といった川上派と謀り、“長嶋の後任は藤田”と、当時の“読売のドン”だった務臺光雄さんを口説いたんです」(前同)

 寝首をかかれた格好となった長嶋は激怒。読売新聞や日本テレビには、ファンの抗議が殺到したという。

 長嶋監督電撃解任から5年後、またも巨人が世間の怒りを買う事件が発生する。PL学園出身の“金の卵”清原和博桑田真澄をめぐる「KKドラフト事件」だ。清原を1位指名すると思われた巨人が桑田を指名した理由は、二つあるという。一つめは寝業師・根本陸夫氏の“埋伏の毒”だ。「西武のフロントで辣腕を振るっていた根本さんは、“西武はKKの両取りを狙っている”とハッタリをかましたんです。巨人は王監督の意向もあり、清原が本命でしたが、根本さんのハッタリを信じて、進学を表明していた桑田の一本釣りに変更したんです」(前同)

 もう一つ、巨人が桑田指名に傾いた理由がある。「夏の甲子園後の鳥取国体で、桑田が大きく落ちるカーブを投げたんです。これは甲子園では見せなかった球種なので、“秘密兵器を隠していた”と、桑田の評価が急上昇したんです」(同)

 後年、ミスターは、「巨人ドラフトの歴史で最大のミスは、清原と野茂(英雄)を取りにいかなかったことだ」と漏らしたという。清原が巨人に入団していれば、プロ野球の歴史が変わっていたかもしれない。

■渡邉恒雄が松井秀喜に直々に

 続いては「王監督解任事件」に触れたい。88年、ペナントを3試合残すも、『日刊スポーツ』の誌面には「王監督退任」の記事が躍る。「ミスターのときと同じ。川上さんが動いて、子飼いの藤田の再登板を務臺さんに進言したんですよ。王解任をスポーツ紙にリークしたのも川上さんです」(スポーツ紙記者OB)

 ONの行く手を阻む川上という構図は、長嶋解任のときと、まったく同じだ。「川上一派の暗躍を知ったミスターは激怒し、王さんに深く同情しました。ONの絆がさらに深まった一件でしたね」(前同)

 時は流れて1995年。長嶋第2次政権の巨人で話題となったのが、「エース・上原浩治の号泣事件」だ。「松井秀喜とホームラン王を争っていたヤクルトのペタジーニの打席で、ベンチから敬遠のサインが出たことに上原が悔し涙を流したんです。マウンドで涙を拭う上原の姿は、プロ野球ファンに鮮烈な印象を残しました」(日テレ関係者)

 上原は「シーズン中、ペタジーニをノーヒットに抑えていたため、勝負したかった」と述懐しているが、面白いのは“忖度された”側の松井の本音だ。上原との対談で、「後ろから“勝負しろよ!”って思ってた。勝負しないと、こっちも勝負してもらえないから」と発言している。確かに、松井の言う通りかも!?

 そんな松井が、FA権を行使してメジャー移籍したのが02年のオフだった。このとき巨人は、グループを挙げて“松井流出阻止”に動いていた。「原監督が引き止めに手をあげましたが、失敗。ミスターは本音ではメジャー移籍容認派。そこで、“最後の切り札”として、渡邉恒雄さんが直々に動いたんですよ」(球団関係者)

 それでも、松井は首を縦に振らなかった。「ナベツネさんは激怒。彼が選手と直接交渉したのは、松井が最初で最後でしたからね。以来、松井は“ナベツネパージ”リスト入り。国民栄誉賞をミスターとW受賞するまでは、ナベツネさんは松井を許していませんでしたね」(前同)

■幻の星野仙一監督計画

 “読売のドン”として長らく球界に君臨したナベツネ氏は、03年にも事件の主役となっている。「原監督“辞表叩きつけ”事件」だ。「監督就任2年目のシーズン終盤、原さんは来季のコーチ人事の腹案を持って、形式上の進退伺いにナベツネさんを訪問したんです。ところが、コーチ人事を一蹴されてしまう。これに原さんがブチ切れて、辞表を叩きつけたんです」(同)

 すぐさま、球団からは後任監督として堀内恒夫の名が発表される事態に発展し、ナベツネ氏は「読売グループ内の人事異動」と、うそぶいてみせた。「この一件で、原さんは“巨人とは切れた”と思いましたがね。強かと言うか、運がいいと言うか……」(同)

 “棚ぼた”で監督に就任した堀内も2年でクビに。水面下では、超大物監督の招聘計画がスタートしていた。「幻の星野監督計画」だ。「巨人はなかったことにしていますが、堀内監督の後任に、阪神のシニアディレクターだった星野仙一さんを据える動きがあったことは事実です。これはナベツネさんの命令一下始まった計画で、当時の読売新聞大阪本社社長の老川祥一さんが指揮を執りました」(前出の読売関係者)

 話はトントン拍子に進んだが、“最後の最後”で、ご破算になったという。「星野さんが“自分の顧問弁護士をスタッフとして雇え”と要求したんですが、その弁護士は1リーグ制騒動の際に選手会側についていた人物だったんです。これにナベツネさんが激怒、話は流れたんです」(前同)

 最後に紹介する事件は、記憶に新しい19年の日本シリーズ。“球界の盟主”巨人が“新たな盟主”と目されるソフトバンクと激突し、日本シリーズ4連敗を喫したしたことだ。ソフトバンクの王会長は、うれしさを爆発させていた。「ダイエー時代の球団代表に、こうメールを送っているんです。“巨人に勝っての日本一。念願がかないました”――」

 王会長の巨人に対す愛憎の胸中は、本誌でもたびたび特集しているが、“巨人に勝っての日本一”が格別だったことは間違いない。

 20年シーズン、巨人から飛び出すのは悲惨な事件か、うれしい事件か。

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