戦場で生まれた絆!奥州征伐で抜け駆けした鎌倉武士の縁談エピソード【上】

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戦場で生まれた絆!奥州征伐で抜け駆けした鎌倉武士の縁談エピソード【上】

古来、結婚は家同士の結びつきとしてとらえられ、往々にして結婚する当人同士の意思とは無関係に話が進められてしまうものでした。

結婚するまで相手の顔も知らない、そもそも結婚することさえ知らされなかった、そんな事も珍しくなかったようで、今回はひょんな事からまとまった鎌倉武士たちの縁談エピソードを紹介したいと思います。

奥州征伐・七人の抜け駆け

時は平安末期の文治五1189年。謀叛人・源義経(みなもとの よしつね)を匿った奥州(東北地方)の藤原泰衡(ふじわらの やすひら)を征伐するべく、源頼朝(よりとも)公が兵を挙げます。

芳虎「源頼朝公奥州泰衡征伐之図」元治元1864年

戦が続く8月9日の夜、明日の決戦に備えていた甲斐国(現:山梨県)の御家人・工藤小次郎行光(くどうの こじろうゆきみつ)は、同じ部隊に所属していた信濃国(現:長野県)の御家人・藤澤次郎清近(ふじさわの じろうきよちか)に声をかけます。

「おい次郎、これから敵陣へ乗っ込まだぁ(乗り込もうぜ)」

それを聞いた清近、

「……明日の先陣は畠山(次郎重忠)殿ぞ。抜け駆けは軍紀違反ゆえ、慎まれよ」

と建前は言いながら、実のところ殴り込みたくてしょうがない本心を、行光は知っています。

おまん、あにょうこーしゃっぺーこん(お前は、何を気取りすました事を言っているのだ)。戦の華は夜討ち朝駆け、今から行けば朝一番には敵陣までたどり着けよう。何も畠山殿ばかりに手柄を独り占めさせるこたぁないじゃんね」

畠山次郎重忠(はたけやまの じろうしげただ)と言えば東国じゅうにその名を知られ、先陣に相応しい大将と誰もが認めるところではありましたが、だからと言って大人しく下風に立つのは癪と言うもの。

「まぁ、気持ちは解らぬでもないが……」

そんな二人の会話を聞きつけて、彼らの上役であった三浦平六義村(みうらの へいろくよしむら)たちがやって来ました。

「その方ら、何を雑談(ぞうたん)しておるか!」

陣中での雑談は内容によって士気を削いだり、デマによる混乱を招いたりするため、基本的に禁止されていました。

「しかも抜け駆けと聞こえたが、まさかその方ら……」

「いや、これはあの……」

何とか言い訳を考える清近でしたが、義村は続けて言いました。

守川周重「三浦義村 中村時蔵」明治十四1881年

「行くのであれば、なぜ我らを誘わぬか!」

建前でこそ禁止していながら、誰もが手柄を立てたくてウズウズしていたようです。

「はあ」

「そうと決まれば善は急げ(?)ぞ!」

「「「おう!」」」

「あ、あの……」

気づけば止めるのは清近ひとり。あれよあれよと話は進み、以下七名で抜け駆けを敢行することとなりました。

一、三浦平六義村
一、葛西三郎清重(かさいの さぶろうきよしげ)
一、工藤小次郎行光
一、工藤三郎祐光(くどうの さぶろうすけみつ)
一、狩野五郎親光(かのうの ごろうちかみつ)
一、藤澤次郎清近
一、河村千鶴丸(かわむらの せんつるまる。後に元服して四郎秀清)

※太字は今回のキーパーソン。

さて、抜け駆けは成功するのでしょうか。

抜け駆けを見逃す重忠の余裕と、義村たちの雑草魂

かくして夜陰に紛れて陣中を抜け出した義村以下七人は、畠山重忠の陣地を横目に通過していきました。

当然、そんな動きはたやすく察知されてしまいますが、発見した郎従の(早く義村たちを足止めすべきとの)進言を、重忠は退けます。

歌川国芳「名高百勇傳」より、鎌倉武士の鑑・畠山重忠。江戸時代。

「先陣をこの重忠が承った以上、我らが戦端を開く以前に誰が何をしようと、その勲功はすべて重忠に帰するものである。そもそもこの戦は頼朝公の命じた大義によって行うものであり、我ら御家人が個々の手柄を争うなど下らぬこと……まぁ、捨て置け」

【原文】……すでに先陣を承るの上は、重忠が向はざる以前の合戦は、皆重忠が一身の勲功たるべし。かつは先登(せんど)に進まんと欲するの輩の事、妨げ申す條、武略の本意(ほい)にあらず。かつはひとり抽賞を願ふに似たり。ただ惘然をなすこと神妙の儀なりと云々……

※『吾妻鏡』文治五年八月九日条より。

流石はエリートの余裕と言ったところでしょうか、ここにも「鎌倉武士の鑑」と称せられた重忠の高潔な人格と、頼朝公に対する篤い忠誠心がうかがわれます。

しかし義村たち中小武士団にとって見れば、恩賞の有無は死活問題。たとえ下らなかろうと、どんなにみっともなかろうと、一族郎党を食わせていくため、功名を目指して遮二無二突き進むよりありません。

「行くぞ!雑草魂を見せてやる!

見逃してくれたのをこれ幸いと、義村たち七人は夜通し駆けて峰々を越えて行ったのでした。

【続く】

※参考文献:
貴志正造 訳注『新版 全訳 吾妻鏡 第二巻 自巻第八 至巻十六』新人物往来社、2011年11月30日
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月20日

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