鎌倉幕府を陰で牛耳った実力者!平頼綱「恐怖政治」と「気になる姿」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 大納言・久我雅忠の娘(後深草院二条)が書いた鎌倉時代の日記文学『とはずがたり』に、面白い話が掲載されている。

 筆者は日本全国を旅し、正応二年(1289)九月に惟康親王(源惟康)が将軍職を罷免された事件を、滞在先の鎌倉で目の当たりにした。彼女は、鎌倉を追放されることになった将軍が「御所を出発なさる」際、対の屋の端に寄せられた、余りにも粗末な張輿(簡易な輿)を目撃。また、雑事をこなす小舎人が、将軍が輿に乗る前から土足で御所の御み簾すを引き落とす様を見て「言語道断で目も当てられなかった」と述懐している。こうした仕打ちは時の執権・北条貞時の指示だったという。

 惟康親王の追放劇については皇統分裂などの事情もあって複雑な事情が絡み合っているものの、父である宗尊親王(六代将軍)も京に送還されたように、実際に将軍はこの頃、名ばかりの存在になっていた。日本では平清盛が初の武家政権を誕生させ、その死後に治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)で源頼朝が鎌倉に幕府を開いたが、源氏の将軍は三代で消滅。幕府はその後、京の摂関家、さらに皇族から将軍を迎えた。

 この源氏に代わって権力を掌握したのが頼朝の舅となった北条時政。関東で源氏と密接な関係を築いた平直方の末裔である北条氏は、伊豆国田方郡北条(伊豆の国市)を領地とした。よく初代執権は時政といわれるが、厳密には次男の北条義時が父を政界から追い、建保元年(1213)に幕府の政所別当と侍所別当を兼ねたことから、執権職が成立したといったほうが正確だろう。

 以降、執権は将軍を補佐するという建前の下、権力を掌握。前述の通り将軍を追放するまでになり、その義時は2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主役に抜擢された。

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