明智光秀はどこで生まれたのか!? 岐阜県3か所に「近江説」が急浮上 (2/3ページ)

日刊大衆

こうして同地に光秀が足跡を残したことで生誕伝説が生まれ、史跡を残すことになったのではないか。

 一方、岐阜県可児市の明智城も候補地の一つ。明智城は典型的な中世の山城で、麓の天龍寺に「明智氏歴代之墓所」の他、「長存寺殿明窓玄智禅定門」という光秀の戒名が刻まれた巨大な位牌もあることから、ここが出生地の本命とされる。

 この辺りにはもともと石清水八幡宮(京都府八幡市)の荘園・明智荘が置かれ、『美濃国諸旧記』によると、土岐明智次郎長山下野守頼より兼かねという者が南北朝時代の康永三年(1342)、城を築いたという。そして、通説によれば、この土岐明智長山氏が歴代、ここに居城し、光秀はその末裔とされている。

 だが、不思議なことに『美濃国諸旧記』の内容を他の史料で確認することができず、中世の荘園である明智荘と光秀の明智一族の関連を窺わせ、さらに一族の誰かがここを領したという裏づけも見つからない。

 一方、光秀が側室に生ませた玄琳という妙心寺(京都市右京区)の僧が書いた『明智系図』に、出生地が美濃国石津郡多羅(大垣市)とある。この多羅には「城じょうケが平だいら」という地名が残り、標高150メートルほどの山が「城山」と呼ばれ、『上石津地誌』に中世の城跡らしき痕跡も記載されている。つまり、玄琳が『明智系図』で父の誕生地とした多羅城は、その「城山」の可能性がある。

 戦国時代、多羅の周辺は高木氏という国人領主(国衆)に支配され、多羅城主はその配下だったと考えられる。その高木一族の貞久という人物が天正一〇年(1582)六月一三日、山崎の合戦で光秀が敗死した直後の一九日、羽柴秀吉から書状を受け取っている。

 そこには、(1)光秀が山科の藪に隠れていたところ、百姓に首をとられた(2)斎藤内蔵助(光秀の重臣)が落ち行く途中、生け捕らえて手縄をかけられた(3)坂本城(光秀の居城=大津市)で光秀の子二人が自害し、天守が炎上した などと光秀にまつわる話が詳細に綴られている。

 この書状には「御返報」とあり、貞久がまず光秀の最期の状況を秀吉に尋ね、それに対する彼の返事であることが分かる。貞久がわざわざ秀吉に詳細を尋ねたのは、光秀が高木氏の支配をうける家の者だったからと解されている。

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