明智光秀はどこで生まれたのか!? 岐阜県3か所に「近江説」が急浮上

日刊大衆

写真はイメージです
写真はイメージです

 1月からNHKの大河ドラマ麒麟がくる』の放送が始まったことによって、主人公・明智光秀の出生伝説が残る地方同士の「おらが村こそが誕生地」というつば競り合いが熱を帯びている。実際、これほど知名度の高い人物でありながら出身地が定まっていないのは光秀くらいで、その代表的な候補地として知られる美濃国内(岐阜県内)三ヶ所に加え、ここにきて新たに“近江説”が名乗りを上げた。

 彼はいったい、どこで生まれたのか。候補の一つが明知城のある岐阜県恵那市。城下の龍護寺に光秀の霊廟があり、寺宝の九条衣が彼の直垂を縫い込んだものとされるばかりか、千畳敷公園には「光秀産湯の井戸」という伝承も残っている。この明知城は鎌倉時代の宝治元年(1247)、幕府の御家人である遠山景廉の長男の遠山景重によって築かれた。先祖は利仁流藤原氏だ。

 その遠山氏の菩提寺である龍護寺の説明板は、遠山景行という武将と『明智軍記』でいう光秀の叔父の明智光安が同一人物としているが、苦しい説明だ。確かに地名は明知だが、明知城は遠山氏の城であり、光秀の明智氏と関連が希薄。

 では、なぜ恵那市街の各所に光秀ゆかりの史跡が残っているのか。

 天正二年(1574)、武田勝頼が当時、織田方だった明知城に大軍を動かしたことから、信長と信忠の父子は急いで救援の兵を挙げた。だが、明知城は山中にあり、『信長公記』の言葉を借りれば、「嶮難 ・節所の地」。行軍が遅れ、その間に城内で謀叛が起きて武田の手に落ちた。それゆえ、信長はやむなく付け城を築いて川尻秀隆と池田恒興を入れ置き、岐阜に帰城。その救援の軍勢に光秀が参陣していたのだ。こうして同地に光秀が足跡を残したことで生誕伝説が生まれ、史跡を残すことになったのではないか。

 一方、岐阜県可児市の明智城も候補地の一つ。明智城は典型的な中世の山城で、麓の天龍寺に「明智氏歴代之墓所」の他、「長存寺殿明窓玄智禅定門」という光秀の戒名が刻まれた巨大な位牌もあることから、ここが出生地の本命とされる。

 この辺りにはもともと石清水八幡宮(京都府八幡市)の荘園・明智荘が置かれ、『美濃国諸旧記』によると、土岐明智次郎長山下野守頼より兼かねという者が南北朝時代の康永三年(1342)、城を築いたという。そして、通説によれば、この土岐明智長山氏が歴代、ここに居城し、光秀はその末裔とされている。

 だが、不思議なことに『美濃国諸旧記』の内容を他の史料で確認することができず、中世の荘園である明智荘と光秀の明智一族の関連を窺わせ、さらに一族の誰かがここを領したという裏づけも見つからない。

 一方、光秀が側室に生ませた玄琳という妙心寺(京都市右京区)の僧が書いた『明智系図』に、出生地が美濃国石津郡多羅(大垣市)とある。この多羅には「城じょうケが平だいら」という地名が残り、標高150メートルほどの山が「城山」と呼ばれ、『上石津地誌』に中世の城跡らしき痕跡も記載されている。つまり、玄琳が『明智系図』で父の誕生地とした多羅城は、その「城山」の可能性がある。

 戦国時代、多羅の周辺は高木氏という国人領主(国衆)に支配され、多羅城主はその配下だったと考えられる。その高木一族の貞久という人物が天正一〇年(1582)六月一三日、山崎の合戦で光秀が敗死した直後の一九日、羽柴秀吉から書状を受け取っている。

 そこには、(1)光秀が山科の藪に隠れていたところ、百姓に首をとられた(2)斎藤内蔵助(光秀の重臣)が落ち行く途中、生け捕らえて手縄をかけられた(3)坂本城(光秀の居城=大津市)で光秀の子二人が自害し、天守が炎上した などと光秀にまつわる話が詳細に綴られている。

 この書状には「御返報」とあり、貞久がまず光秀の最期の状況を秀吉に尋ね、それに対する彼の返事であることが分かる。貞久がわざわざ秀吉に詳細を尋ねたのは、光秀が高木氏の支配をうける家の者だったからと解されている。

■織田 信長に仕える以前から西近江に足跡が残る!?

 一方、近年、注目を集めつつある「近江説」に触れておきたい。この説は江戸時代の貞享年間(1684〜88)に彦根藩主・井伊家に献上された『淡海温故録』に依拠している。現在の滋賀県多賀町佐目にやはり中世の城があり、『淡海温故録』によると、光秀の父とされる人物・明智十左衞門が住んでいたという。

 また、光秀の家臣の子孫とされる佐目の住民の一人は、「見けん津つ」という姓で、これはもともと光秀から名の一文字をたまわって「みつ」と呼んでいたものの、彼が謀叛人であるために隠して「けんつ」と読むようになったという。

 さらに、光秀が本能寺の変のあと、信長の居城だった安土城に入城した翌日に多賀大社などに発給した禁制も、彼が佐目出身である根拠とされる。

 とはいえ、『淡海温故録』はあくまで江戸時代という後世の史料。没落した一族が氏名の読み方を変えて逼塞したという伝承は明智一族に限った話ではなく、各地に類話が残っている点は気掛かりだ。

 一方、多賀大社は伊勢神宮内宮の御祭神である天照大神の父母神、伊弉諾・伊邪那美の二柱(二神)を祀り、中世から近世にかけて庶民の崇敬を集めた。近江国を代表する神社であるため、近江という足元を固めようとする光秀が多賀大社を保護するために禁制を発給したこともある意味、当たり前の話といえる。

 ただし、光秀が信長から西近江の坂本城を与えられ、最近では彼に仕える以前から足跡を残していたことが判明し、この説には一蹴できない一面もある。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

「明智光秀はどこで生まれたのか!? 岐阜県3か所に「近江説」が急浮上」のページです。デイリーニュースオンラインは、麒麟がくる明智光秀織田信長大河ドラマ歴史カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧