信長側からみて明智光秀はいつ登場した?織田信長の家臣が記した貴重な史料「信長公記」 (4/4ページ)

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いつから謀反を企てていたのかはわかりませんが、連歌の会で詠んだ句にヒントがありそうです。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

《五月雨の降りしきる今こそ、土岐氏の血を汲む明智が天下をとるときだ・・・》という意味が隠されているといいます。土岐というのは清和源氏の流れを汲む軍事貴族の系統で、美濃を中心に栄えた武家のこと。明智家もその庶流です。

室町時代は守護大名として栄えた土岐家。それを自分の手で再興したいとずっと胸に秘めていたのでしょうか。

安土城が竣工した1579年から、本能寺の変まではたったの3年。信長はこの年の3月に武田家を滅亡させ、4月に甲斐の恵林寺の焼き討ちも行っています。

まさに信長の人生は息つく暇もない戦いの連続だったといえますね。

このとき齡60近かかったといわれる光秀は、そんな戦乱の世を終わらせたいと考えたのでしょうか。

ちなみに伝記は、信長の死を知った徳川家康が急いで大坂を離れるところで終わっていました。

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