実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】 (2/3ページ)
今回は、その謎について考察していきたいと思います。
『吾妻鏡』と『源平盛衰記』……両書の違いと共通点その前に、まず定説の根拠となっているのは鎌倉幕府の公式記録(歴史書)である『吾妻鏡(あづまかがみ)』、それに対して異説の手がかりとなっている記述は、後世の軍記物語である『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』に見られます。
公式記録と軍記物語では信憑性が比較にならない、と思われるかも知れません。しかし『吾妻鏡』の編纂は源平合戦も遠い昔となった鎌倉時代の中期で、当事者たちは既に亡く、古老たちの伝承をまとめた点では、公式記録とは言っても信憑性に疑問も残ります。
だからと言って、誇張や脚色も自由な軍記物語と全く同列に語ることは出来ないものの、往時の武士たちが息づいていた空気感には一定の共通性(※)が見られるため、考察の手がかりにはなりそうです。
(※)『源平盛衰記』やその元となった『平家物語』は、『吾妻鏡』とほぼ同時期である鎌倉時代の成立と考えられています。結局のところ、武士たちの言い伝えに「幕府のお墨付き」があったか否かの違いとも言えるでしょう。
この点を踏まえて両書の違いを紹介しつつ『源平盛衰記』の記述から、大庭景親が「なぜ、頼朝公を見逃したのか」について考察を進めていきます。
頼朝公「九死に一生!」シーンを両書で比較さて、それでは『吾妻鏡』と『源平盛衰記』で、頼朝公が急死に一生を得たシーンをそれぞれ比較してみましょう。
※両書の原文を詳細に載せていくと冗長になってしまうため、今回は割愛(意訳のみ紹介)させて頂きます。
※また、訳者によって細部のディティールが異なる場合もあります。
【吾妻鏡】
梶原景時は頼朝公の隠れた洞窟(鵐の窟-しとどのいわや)の場所を知っていながら、景親に「こっちの山に頼朝はいなかった。あっちの山が怪しい」と進言。全軍がそちらへ向かったため、頼朝公は命拾いをした。