実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】

Japaaan

実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】

時は平安末期の治承四1180年8月、驕り高ぶる平家政権を打倒するべく、伊豆国(現:静岡県の伊豆半島)で挙兵した源頼朝(みなもとの よりとも)公。

しかしその前途に立ちはだかった相模国(現:神奈川県の大部分)の大庭景親(おおばの かげちか)にあっけなく撃破されてしまい、命からがら逃げ出すことに(石橋山の合戦)。

山中に隠れ潜んでいた頼朝公をあと一歩のところまで追い詰めた景親でしたが、頼朝公と内通した梶原景時(かじわらの かげとき)に騙されて頼朝公を取り逃がしてしまいます。

隠れている頼朝公ら(右)を、大庭景親ら(左)から匿った梶原景時(中央)。歌川国芳「源頼朝石橋山旗上合戦」安政二1855年

九死に一生を得た頼朝公は相模湾を渡り、房総半島で力を蓄えて捲土重来、景親を倒して鎌倉の地で幕府を開いたのであった……ちょっとざっくりですが、そんなストーリーが定説として広く知られています。

しかし、この歴史物語には諸説あり、石橋山の合戦で「大庭景親は、頼朝公の隠れ場所を知っていながら、あえて見逃した」という見解もあるようで、もしそうだとしたら、景親はどうして頼朝公を見逃したのでしょうか。

今回は、その謎について考察していきたいと思います。

『吾妻鏡』と『源平盛衰記』……両書の違いと共通点

その前に、まず定説の根拠となっているのは鎌倉幕府の公式記録(歴史書)である『吾妻鏡(あづまかがみ)』、それに対して異説の手がかりとなっている記述は、後世の軍記物語である『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』に見られます。

公式記録と軍記物語では信憑性が比較にならない、と思われるかも知れません。しかし『吾妻鏡』の編纂は源平合戦も遠い昔となった鎌倉時代の中期で、当事者たちは既に亡く、古老たちの伝承をまとめた点では、公式記録とは言っても信憑性に疑問も残ります。

だからと言って、誇張や脚色も自由な軍記物語と全く同列に語ることは出来ないものの、往時の武士たちが息づいていた空気感には一定の共通性(※)が見られるため、考察の手がかりにはなりそうです。

(※)『源平盛衰記』やその元となった『平家物語』は、『吾妻鏡』とほぼ同時期である鎌倉時代の成立と考えられています。結局のところ、武士たちの言い伝えに「幕府のお墨付き」があったか否かの違いとも言えるでしょう。

この点を踏まえて両書の違いを紹介しつつ『源平盛衰記』の記述から、大庭景親が「なぜ、頼朝公を見逃したのか」について考察を進めていきます。

頼朝公「九死に一生!」シーンを両書で比較

さて、それでは『吾妻鏡』と『源平盛衰記』で、頼朝公が急死に一生を得たシーンをそれぞれ比較してみましょう。

※両書の原文を詳細に載せていくと冗長になってしまうため、今回は割愛(意訳のみ紹介)させて頂きます。
※また、訳者によって細部のディティールが異なる場合もあります。

【吾妻鏡】
梶原景時は頼朝公の隠れた洞窟(鵐の窟-しとどのいわや)の場所を知っていながら、景親に「こっちの山に頼朝はいなかった。あっちの山が怪しい」と進言。全軍がそちらへ向かったため、頼朝公は命拾いをした。

『源平盛衰記』の一幕。木の洞に弓を突っ込んで「頼朝公がいないか」掻き回す大庭景親(上)と、いつ見つかるかとヒヤヒヤしている頼朝公たち(下)。歌川国芳「石橋山伏木隠大場三郎景親」

【源平盛衰記】
梶原景時は巨木の洞(うろ。あるいは倒木の下)に隠れていた頼朝公を匿おうとしたところ、すぐ近くまで景親がやってきた。
「その中はもう確認したのか」と景親が尋ねたところ、景時は「既に確認したが、頼朝はいなかった」と回答。
その様子を少し怪しんだ景親は「念のため、もう一回確認しよう」と自分の弓を突っ込んで何度か引っかき回す。
弓の先端が洞の底に潜んでいた頼朝公の袖(鎧のパーツ)に触れると、洞の中から二羽の鳩が飛び出し、羽ばたいていった。
鳩が出てきたことで、景親も「……確かに、この中には誰もいないようだ」と納得したが、部下に「ここを頼朝が隠れ場所に出来ぬよう、岩をもって塞いでおけ」と指示。
景親の軍勢が去った後、頼朝公はどうにか岩をどけて脱出、九死に一生を得たのであった……。

『吾妻鏡』の随分あっさりした記述に対して、『源平盛衰記』の読んでいるこっちがハラハラさせられる記述……これがソツなくまとめた「公式文書」と、想像力の翼を思いっきり広げた「歴史物語」との差なのでしょう。

しかし、もしも後書に一部の真実があるとすれば……?という前提で、『源平盛衰記』の記述を掘り下げてみましょう。

【続く】

※参考文献:
五味文彦 編『現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年10月
田中幸江 訳『完訳 源平盛衰記 四』勉誠出版、2005年9月
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』2012年8月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】」のページです。デイリーニュースオンラインは、大庭景親源平盛衰記梶原景時吾妻鏡源平合戦カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧