田中角栄「怒涛の戦後史」(20)元官自民党幹事長・野中広務(上) (2/3ページ)
時の補選は2議員の死去に伴うもので、もう一人の当選者が父親の跡を継いだ谷垣禎一・元自民党総裁だった。
当選した野中は、あの陳情以後、何かにつけて田中との関係を保っていたことから、迷うことなく田中派入りした。
すでに田中は金脈・女性問題の不明瞭さを突かれて、首相の座を追われるように退陣し、その後のロッキード事件で逮捕という中での田中派入りだった。野中の地元からは、なぜあの田中のもとに身を寄せるのかとの批判もあったが、揺るがずの田中派入りだった。
当時の田中派担当記者の弁がある。
「野中には、田中から直接の出馬要請が来て、田中派幹部の竹下登が口説きに出た。竹下は『君のような議会と地方行政経験のある奴こそ、いま国会が求めている人物だ』と熱心だった。竹下は竹下で、やがての天下取りを目指していただけに、一人でも田中派内に手兵が欲しかったのだ」
★希代の「ケンカ上手」
そうした田中の“野中買い”の背景には、野中の腕っ節の強さがあった。度胸これ以上なし、希代の「ケンカ上手」ということである。時に、田中もロッキード事件への批判が渦巻く中、中央突破を図るには「ケンカ上手」の手下が欲しいということであった。
田中は野中の、特に次のようなケンカぶりを評価していた。
野中は京都府議時代、時の共産党が担いだ蜷川虎三・京都府知事に強い対抗心を持ち、その知事を支えた京都府職員労働組合などがやっていた組合の「ヤミ専従」を徹底的に叩いてきた。
「ヤミ専従」とは、府の職員などとして府から給料をもらい、組合活動に専従していたことを指す。
野中はスキャンダル情報を徹底的に集め、この追及に尽力したのだった。
結果、さしもの「共産党府政」も弱体化、昭和53年の京都府知事選で自民党がようやく“府政奪回”を果たすと、野中は請われて副知事に就任した。また、この副知事ポストでも、人事権を駆使して組合の分裂を策すといった徹底ぶりであった。
人事による分断工作により、組合の無力化をうかがったということである。