実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【下】

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実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【下】

前回のあらすじ

時は平安末期の治承四1180年8月、反平家の兵を挙げた源頼朝(みなもとの よりとも)公ですが、石橋山の合戦で宿敵・大庭景親(おおばの かげちか)に打ち破られてしまいます。

その後、景親の追手を逃れた頼朝公が力を蓄え、リベンジを果たしたストーリーは有名ですが、鎌倉時代の軍記物語『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』には「景親があえて頼朝公を見逃した」可能性が示されていました。

今回は『源平盛衰記』の記述から、景親が頼朝公を見逃した可能性と、その理由について掘り下げてみようと思います。

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実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】

発見した頼朝公を、あえて見逃した景親

『源平盛衰記』のポイントは以下の三つ。

1、大庭景親は梶原景時の言葉を鵜呑みにせず、自分で確かめた。
2、洞の中に弓を突っ込んで掻き回し、その先端が鎧の袖に当たった。
3、すると、無人を証明するかのように鳩が二羽飛び出した。

大庭景親(左)が洞を確認したところ、中から二羽の鳩が飛び立った。小国政「石橋山の朽木に霊鳩頼朝を助く」安政二1896年

景親は『吾妻鏡』の世界ほど景時を信用しておらず(頼朝公との内通を疑っており)、自分でも確かめたところ、弓の先端に鎧の袖が当たった感触を確認しています。

鎧の袖は部位によって糸、革、鉄片と材質が組み合わされていますが、手探りでも「鎧の袖だ」と判ったということは、弓の先端が当たったのは高確率で鉄片部分と考えられます。

つまり「この洞の中に人工物がある≒それを身に着けた人間がいる」であろうことが直感的に把握できた訳です(仮に置いてあっただけにしても、本気で頼朝公を捕らえるつもりなら、事実確認のため中へ入る筈です)。

加えて洞の中から二羽の鳩が飛び出しましたが、鳩は源氏の氏神である八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使いであり、ここに八幡大菩薩の加護を受けた者=頼朝公がいる、何よりの証拠と言えるでしょう。

にもかかわらず、景親は「野鳥が潜んでいたような場所だから、よもや頼朝が隠れていよう筈もあるまい」と周囲に言い聞かせ、結局は見逃すことにしたのでした。

以上の理由により、景親が頼朝公を見逃した可能性が十分に考えられる訳ですが、それではなぜ、景親は頼朝公を見逃したのでしょうか。

あえて頼朝公を泳がせた?景親の戦略スケール

景親が頼朝公を見逃す理由はただ一つ。

「今、ここで頼朝に死なれては都合が悪い」

それは解るのですが、景親にとってどう都合が悪いのでしょうか。さまざまな可能性を考える手がかりとなるのは「生き延びた頼朝は、どのような行動をとるか」という着眼点。

石橋山の窮地から脱出した頼朝公は、どうにかして安全地帯(自分を支援してくれる武士団の勢力圏)へ逃げ込もうとするでしょう。

現地ですんなり受け入れて貰えればいいのですが、天下の平家政権を敵に回した頼朝公の挙兵は「ネズミが富士山に挑むような暴挙」でもあり、そう簡単に支持は得られない筈。

「征くぞ、源氏再興の正念場じゃ!」頼朝公の挙兵に呼応した相州の雄・三浦義明と義澄父子。Wikipediaより。

それでも「武門の棟梁たる源氏の嫡流ブランド(復活願望)」や「驕り高ぶる平家政権への反感」から頼朝公に味方する物好き?は一定数存在するため、彼らは頼朝公を支持するべく旗色を鮮明にするでしょう。

頼朝公があちこち逃げ回り、あるいは広く支援を呼びかけることによって、坂東ひいては東国じゅうの武士団が「平家派か、頼朝派か」の決断を迫られることになります。

こうして「謀叛の可能性(反平家勢力)」を片っ端から炙り出した上で、ことごとく討ち平らげよう……というのが景親の戦略だったのではないでしょうか。

また、景親は平清盛(たいらの きよもり)から「東国の後見(こうけん。実質的な支配者)」を任されており、その自負や矜持、それを裏づける実力も持っていました。

弱小だった頼朝公をただその場で殺すのは簡単だけど、あえて泳がせることでより大きな戦略の誘引剤に利用してやろう……石橋山で頼朝公を見逃した景親の判断には、そんなスケールが感じられます。

エピローグ

……しかし、景親の目論見は「ある男」の存在によって根底から覆されてしまいます。

上総国(現:千葉県中部)で二万騎と称される大勢力を誇っていた上総介広常(かずさのすけ ひろつね)が、頼朝公の将器に「男惚れ」して臣従を誓いました。それがキッカケで坂東じゅうの武士団が「源氏有利」と判断、こぞって頼朝公に味方してしまったのです。

それでも「東国の後見」の務めを果たすべく謀叛の鎮圧に死力を尽くした景親ですが、もはや坂東の趨勢は決して衆寡敵せず、また京の都から来る予定だった平家の援軍も遅れたため、治承四1180年10月23日、ついに頼朝公の軍門に下りました。

奇しくも石橋山の合戦(同年8月23日)からちょうど2か月。こんな短期間で、こうまで逆転してしまおうとは、景親はもちろん頼朝公ですら思わなかったかも知れません。

「許せ、三郎……!」兄・景義の手で斬首される景親(イメージ)。

そして3日後の10月26日、固瀬河(かたせがわ。現:神奈川県藤沢市)のほとりで兄・懐島太郎景義(ふところじまの たろうかげよし。合戦前から頼朝公に臣従していた)に斬られ、景親の首級は梟首(きょうしゅ。さらし首)にされたのでした。

頼朝公は「自分の弟を斬らせる」ことで景義の忠誠を試すと共に、景親には「自分の兄に斬られる」無念さを味わわせることで、石橋山の屈辱を晴らそうとしたのかも知れませんが、たとえ戦略であっても自分を見逃した景親に比べると、ちょっと器が小さいように感じられなくもありません。

歴史にif(もしも)はありませんが、もしも景親の目論み通りに東国平定が成功していたら、武士たちの世はどのように変化していたのか……興味は尽きないところです。

【完】

※参考文献:
五味文彦 編『現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年10月
田中幸江 訳『完訳 源平盛衰記 四』勉誠出版、2005年9月
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』2012年8月

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