「如何に生くべきか 如何に逝くべきか」ーー有頂天家族から考える死生観 (1/2ページ)
死生観という言葉がある。これは文字通り、人の死生に対する思想や観点を指す言葉である。さて、「あなたの死生観はどういったものでしょうか」と尋ねられて、淀みなく答えられる人間はそう多くはないだろう。なぜなら死生観を語ることは、その人の人生を語ることと同じと言っても過言ではないためである。
■森見登美彦著「有頂天家族」について
森見登美彦著「有頂天家族」にて描写される死生観を紹介したい。「有頂天家族」は、京都の街を舞台に、狸の家族がその狸生を生きていく作品である。主人公は「オモシロ主義」を信条とする青年狸、下鴨矢三郎。下鴨家は母一匹子四匹という構成で、矢三郎は三男坊である。
父である下鴨総一郎は、矢三郎がまだ幼い頃、狸鍋にされて食べられた。総一郎の命を奪ったのは、天狗や人間によって組織された金曜倶楽部という集団である。金曜倶楽部は年に一度の忘年会にて狸鍋を食することを恒例としている。つまり、作中における京都の狸たちは、隙を見せれば鍋にされて喰われる恐怖におののきながら、日々を生きているのである。
■人生ならぬ狸生について
「有頂天家族」におけるもうひとつの大きなテーマは「偽右衛門選挙」である。狸界の頭領たる偽右衛門の座をめぐり、狸たちはあれこれと画策する。さまざまな思惑が交錯し、同盟を結び、裏切り、和解する。鍋にされることに怯え、これからの狸界についても思いを馳せる狸たちの人生ならぬ狸生は、とても興味深く、また魅力的である。
■人間社会における死について
食物連鎖の頂点に立つ人間は、自らよりも大きなものに食べられる恐怖を知らない。それは純然たる事実である。
しかし、だからといって人間社会を生き延びるのがたやすいというわけでもないだろう。人間関係のいざこざ、受験戦争、就職難、出世レースなど、他人を蹴落としたことのない人間はいない。社会的な死は、常に人間の隣に在る。狸が人間に喰われることに怯える一方で、人間は、人間に喰われることに怯えながら生きているのである。
■「如何に生くべきか」ということについて
いつ喰われるとも知れない人生を、我々はどう生きれば良いのだろう。