血の涙を流して息子への手紙を書いた。浄土宗の礎となった「源信和尚」の母の愛

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血の涙を流して息子への手紙を書いた。浄土宗の礎となった「源信和尚」の母の愛

むかし、むかし大和国(現在の奈良県)に、千菊丸という少年がいました。千菊丸は7歳の時に父親を亡くし、母親の手ひとつで育てられました。

ある日、千菊丸が河原で遊んでいると、旅の僧侶が川辺に来てお弁当箱を洗い始めました。千菊丸はその僧侶のところへ行くと「お坊さん、そこの水は昨日の雨で濁っているよ、あっちにもっときれいな川があるよ」と教えました。

すると僧侶は「仏教では『浄穢不二』といって、この世にきれいなものも、汚いものもないと教えられているんだよ。人間には迷いがあるからきれい、汚いと差別しているだけで、仏様の目からみればこの世は『浄穢不二』なのだよ」と答えました。

すると千菊丸は「『浄穢不二』なら、どうしてお弁当箱を洗うの?」と素朴に素直な心で聞きました。

その僧侶には返す言葉もありません。それを口惜しいと思ったのか、僧侶は千菊丸に聞きました。「数の数え方で私にはどうしても分からないことがあるのだが、坊やはわかるかな?まず数を数えてごらん」

千菊丸は言われるがままに「一つ、二つ、三つ、四つ、五つつ、、、九つ、十」と数えました。するとその僧侶は「一つ、二つ、とみな“つ”がつくのに、どうして最後の“十”には“つ”がつかないのだろう」と尋ねました。

すると千菊丸は「それは五つつで“つ”を二回使ってしまったから、もう使える“つ”がないんだよ」と答えました。

それを聞いた僧侶は千菊丸の聡明さに驚き、すぐに千菊丸の母親のもとを訪ねました。「この子の賢さは並大抵ではありません。このままにしておくのは勿体ないことです。比叡山で学問を学ばせたらどうでしょうか」と勧めました。

母親にとって我が子を手放すのは何よりも辛いものです。出家してしまったら、もう二度と会うこともできなくなるかもしれないのです。

しかし、亡くなった夫ともども信仰心の篤い母親は、息子が良い僧侶となって人々のために尽くすのなら、夫もさぞ喜んでくれることだろうと考えました。

そして千菊丸に「立派な僧侶になるまでは決して帰ってきてはいけませんよ」と諭し、比叡山へと送り出したのでした。

源信僧侶の誕生

天暦4年(950年)千菊丸は9才で、比叡山中興の祖・慈慧大師良源に入門し、仏法を学ぶことになったのです。

千菊丸は天台宗の僧侶となり、名を『源信』と改めました。

もともと卓越した才知の持ち主であった源信は、良き師、良き環境に身を置いて“水を得た魚”の如く一心不乱に勉学に励みました。

源信が十五歳になるころには、比叡山でも傑出した僧侶として、その名を知らぬ者のいない存在となりました。

その頃、村上天皇より「学識優れた僧侶を内裏に招いて『称讃浄土経』(『阿弥陀経』の異訳のお経)の講釈を聞きたい」という知らせが比叡山に届きました。

この時代、寺の盛衰は時の権力者の力添えに大きく依存していたので、この要請は寺の一大事です。どの僧侶にこの役目を務めさせるかが話し合われました。

その結果、十五歳の源信がその役に任命されたのです。比叡山の数多くいる僧侶の中から、十五歳の源信が選ばれたというのは余程のことでしょう。

源信は村上天皇の前で『称讃浄土経』を立派に講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれることになったのです。そして天皇より様々な褒美の品を賜りました。

源信は“きっとお母様も喜んで下さるだろう”と思い、その品々を手紙と共にふるさとの母へと送ったのです。

すると母へ送った品々が開封もされずそのまま送り返されてきました。そこには一通の母からの手紙が添えてありました。その原文は平安時代末期に成立した『今昔物語集』に見ることができます。

私は、片時も、おまえのことを忘れたことはありません。
どんなに会いたくても、やがて尊い僧侶になってくれることを楽しみにして、耐えてきたのです。

それなのに、権力者に褒められたくらいで有頂天になり、地位や財物を得て喜んでいるとは情けないことです。

名誉や利益のために説法するような、似非坊主となり果てたことは悔しさのかぎりです。

後生の一大事を解決するまでは、たとえ石の上に寝て、木の根をかじってでも、仏道を求め抜く覚悟で、山へ入ったのではなかったのではないですか。

夢のような儚い世にあって、迷っている人間から褒められて何になりましょう。後生の一大事を解決して、仏さまに褒められる人にならねばなりません。

そして、すべての人に、後生の一大事の解決の道を伝える、尊い僧侶になってもらいたいのです。     母より

後の世を渡す橋とぞ思いしに
世渡る僧となるぞ悲しき

母からの手紙を詠んだ源信は、自分の過ちに気づき苦しいほどに涙しました。

そして改心した源信は天皇から賜った品々を焼き払い、僧都の位も返上します。やがて源信は比叡山の横川にある草庵に隠棲し、念仏三昧・後生の一大事を解決するという求道の道を選んだのでした。

さてここで述べられる『後生の一大事』とは『生死の一大事』ともいわれ、生まれた者は必ず死んでいかねばならないという一大事のことです。

人は生まれれば必ず死ぬという事実に伴う苦悩、不安や恐れから如何に人々が救われることができるのか。善人も悪人さえも全ての人が救われるには。この難題を解決するために源信はあらゆる仏典を読み、仏道修行に励みました。

そして中国の中国浄土教の善導大師の著作から、どんな極悪人も救う阿弥陀如来の本願を知らされ、ついに阿弥陀如来の本願によって生死の一大事を解決したのです。

源信は『後生の一大事の解決を得た今ならば、きっとお母様も喜んで下さる』と母のいる故郷へと旅立ちました。

家に着くと、母は既に重い病にかかっており危篤状態でした。

「お母様、遅くなって申し訳ありません、源信です」
「ああ、源信ですか。今生で会えるとは思ってはいませんでした・・・」

9歳で家を出てから母に再会するまでに30年以上の年月が経っていました。母はその間も源信が立派な僧侶になることを願い続けてきたのです。

源信は今こそこれまでの母の御恩に報いる時と、“後生の一大事”の解決とは阿弥陀如来の本願を知ることであると説きました。

母は源信の説法を聴き、阿弥陀如来に救われて72歳で往生を遂げたと伝えられています。

『往生要集』の編纂

絹本著色六道絵(滋賀県 聖衆来迎寺所蔵)ウィキペディアより

寛和元年(985年)、源信は浄土教の観点より、多くの仏教の経典や書物などから“極楽往生”に関する重要な文章を集めた『往生要集』を編纂しました。

『往生要集』は死後「極楽浄土」に至るためには、一心に仏を想い念仏を唱える以外に方法はないと説き、のちの“浄土宗”“浄土真宗”が生まれる礎となりました。

また地獄・極楽の概念や意味を説き、それはやがて貴族や庶民へと浸透し、仏教信仰という面だけではなく、のちの文学美術世界にも多大なる影響を与える事となりました。

そして『往生要集』に記述された「地獄」に基づいて、大衆教化として多くの地獄絵(六道絵)が描かれるようになりました。現在、私たちが「地獄」と聞いてイメージする世界は、実はこの『往生要集』に記述された地獄そのものなのです。

国中に末法思想が広がったこの時代に、源信は厳しい修行をしなければ救われないという天台宗の僧侶でありながら、一心に仏を信じ念仏を唱えればどんな人であろうとも全ての人が救われるという境地へとたどり着いたのでした。

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