武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【下】

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武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【下】

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武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【上】

戦国末期に武士の身分を失った甲賀(こうか)流忍者たちは、武士の誇りを忘れないよう甲賀古士(こうかこし。古くは武士であった)と称し、武士の身分を取り戻すため、江戸時代を通して嘆願運動を続けて来ましたが、ずっと実現できずにいました。

そして幕末、戊辰戦争(慶応四1868年)の勃発に際して「新しい世で武士になろう」と幕府を見限り、新政府軍に加わった甲賀古士たちは「甲賀隊(こうかたい)」として北越戦線に投入され、関川口(現:山形県鶴岡市)で庄内藩と交戦します。

猛烈な抵抗を受けて攻め倦(あぐ)ねた本隊(岩国藩・高鍋藩)に、甲賀古士が「山中を迂回して、敵陣の左翼を衝く」作戦を進言。

その進言が容れられ、甲賀古士たちは別動隊を編成して険阻な山や渓流を越えて敵陣に接近しますが、あと少しのところで庄内藩に発見されて猛烈な銃撃を浴びせられます。

ここまで来たら、もう後には退けません。甲賀古士たちは得物を手に手に突撃を敢行したのでした。

関川口をみごと攻略、庄内藩の逆襲も撃退

あらかじめ庄内藩の陣中に潜伏していた者たちは、甲賀隊の突入を知って攪乱工作を開始します。

「それっ、今だ!」

その詳細は伝わっていませんが、甲賀流忍術が得意とする手妻(奇術)や薬物を用いて庄内藩の軍勢を大いに惑わし、混乱に陥れたことは想像に難くありません。

「おぉっ、敵陣より火の手が上がったぞ!」

正面から攻撃していた本隊も庄内藩の動揺を見逃すことなく敵陣へ突入。大いに斬り回って各所に血煙を上げましたが、現地には当時の刀疵が残っている古民家もあるそうで、戦闘がいかに激しいものであったかが偲ばれます。

「……敵の砲台を陥落(おと)したぞ!」

敢然と抵抗を続け、徳川四天王(の一人・酒井忠次)の末裔に恥じない戦ぶりを見せた庄内藩ですが、切り札の砲台を奪われて勝算を失い、退却を余儀なくされました。

「あの関川口の堅い守りを、ついに攻略(おと)した……我らの勝ちぞ!」

「皆の者、勝鬨(かちどき)を上げよ!」

「「「えい、えい、おう!」」」

夜が明けて明治元年9月12日、晴れて攻略を果たした関川口で全軍が合流。岩国藩と高鍋藩は敗走した庄内藩を追撃し、旗本隊(甲賀隊、高野隊、多田隊)は関川口の守備を任されます。

もっと前線へ出て、より手柄を立てたい気持ちもあるものの、ここを庄内藩に奪還されたら、前線部隊の退路が断たれて「袋のネズミ」にされてしまいますから、決して疎かには出来ない任務です。

事実、4日後の9月16日に庄内藩が関川口を奪還するべく兵を繰り出しており、9月20日まで4日間にわたって防衛戦を繰り広げています(途中、9月18日に旗本隊の後発組や新政府軍諸藩の増援が到着)。

ちなみに、関川口は戊辰戦争において庄内藩が唯一新政府軍の進攻を許してしまった場所であり、何としても奪還したかったところでしょうが、新政府軍は庄内藩の猛攻を見事に撃退。

前進する仲間の後方をしっかり守り抜いた甲賀古士たちの武勲は、最前線に躍り出た者と同等か、それ以上のものと言えるでしょう。

京都への堂々たる凱旋、新しき世の武士を夢見て……

その後、庄内藩が再び関川口に攻めてくることはなく、9月27日に藩主・酒井忠篤(さかい ただずみ)が新政府軍に恭順。

降伏した庄内藩主・酒井忠篤。後に赦免され、その軍才を活かして帝国陸軍の発展に貢献。

これで東北戦線はひとまず落ち着いたため、庄内藩の戦後処理は他藩にお願いして甲賀隊をはじめとする諸隊は越後口総督(北陸方面の総大将)である仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)に従って奠都・東京に入り、11月4日に明治天皇に拝謁して賊軍討伐の錦旗を返上。

そして12月1日、約半年ぶりに京都へ凱旋した一同は、嘉彰親王にゆかりの深い仁和寺で大歓迎を受けて、その夜は祝勝会が催されました。

「いやぁ、奥羽の賊徒も平定されてまずはめでたい。まだ抵抗を図る残党もおるようじゃが、その降伏も時間の問題であろうよ」

「関川口での攻めぶり、防ぎぶりは甲賀古士の面目躍如、かの武功を以てすれば、武士へのお取り立ては疑いなかろう」

「左様々々。我ら新しき世の武士、甲賀新士などと称する日も、そう遠くはなかろうのぅ……」

などと大きな期待に胸を膨らませたのかも知れませんが、彼らの希望がついに果たされなかったのは、こんにち歴史に語られる通りです。

エピローグ・甲賀忍者の末裔たち

甲賀古士たちは「武士になる(武士の身分を取り戻す)」望みを賭けたからこそ江戸幕府を見限って新政府軍に味方したのに、その新政府軍が「武士の世を改める(武士をなくす)」ために戦っていたのは、実に皮肉というよりありません。

「へい毎度」薬売りに励む甲賀忍者の末裔たち。

ともあれ武士という身分がこの世から消滅してしまった以上、執着しようもなくなった甲賀古士たちは甲賀流忍術が得意としてきた製薬業で生計を立てるようになります。

現代でも甲賀忍者の末裔によって創立された企業が数多く存在していますが、私たちが日ごろ利用する医薬品の中に忍術の知恵が活かされていると思うと、歴史のロマンを感じずにはいられません。

【完】

参考文献
藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』吉川弘文館、2011年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
和歌山県立文書館「文書館だより 第36号」和歌山県立文書館、2013年

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