武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【中】
前回のあらすじ
前回の記事
武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【上】平安時代から永らく甲賀の地(現:滋賀県甲賀市、湖南市)を治め、活躍していながら、戦国末期に領地と武士の身分を失ってしまった甲賀(こうか)流忍者たち。
かつて武士であった誇りを忘れぬよう「甲賀古士(こうかこし)」と称した彼らは、江戸幕府に対して初代将軍・徳川家康への忠義エピソードをでっち上げ、卓越した忍術をアピールして仕官を嘆願するものの、江戸幕府には既に伊賀流忍者を抱えていたため、あえなく失敗。
やがて討幕の機運が高まり、新政府軍と旧幕府軍の本格的な武力衝突「戊辰戦争」が勃発すると、甲賀古士たちは江戸幕府を見限って「新しい世で武士になろう」と一念発起、官軍に味方するため旅立ったのでした。
翻る錦旗の下、越後国を制圧するも……さて、上洛した甲賀古士たちは仁和寺(現:京都市右京区)に在陣していた仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)の護衛に取り立てられて「甲賀隊(こうかたい)」と称します。
越後口総督として官軍の指揮をとる仁和寺宮嘉彰親王殿下(中央)、Wikipediaより。
同じ頃、高野山・金剛峯寺(現:和歌山県伊都郡高野町)に仕えていた郷士によって編成された「高野(こうや)隊」、摂津多田院(現:兵庫県川西市)に仕えていた郷士で編成された「多田(ただ)隊」と合わせて「旗本隊(はたもとたい)」と呼ばれました。
「……天下泰平のため、疾(と)く北越の賊徒を討ち平らぐるべし……」
慶応四1868年6月14日、嘉彰親王は奥羽越列藩同盟を討伐するべく北陸道より進撃する越後口総督に任ぜられ、同年6月22日になっていよいよ京都を出立。
嘉彰親王の腰には賊軍を平らげる節刀が佩(は)かれ、そしてその頭上には違方(まごうかた)なき官軍の証である錦旗が燦然と翻りました。
【越後国を制圧するまでの道のり】
7月7日
敦賀港(現:福井県敦賀市)に到着、帆船富有丸(ふゆうまる)に乗り組んで出航
7月9日
今町港(現:新潟県上越市)から上陸。高田、柏崎、新潟を経て新発田へと進軍
8月11日
村上城を攻略したことで、越後国全域を制圧(残党は出羽に脱出し、庄内藩と共に抵抗)
ここまで旗本隊は嘉彰親王の護衛で前線に出ておらず、甲賀隊が「このまま武勲を立てずば、武士へのお取り立てもままなるまい」と焦っていた9月4日、いよいよ旗本隊に最前線への出撃命令が下ったのでした。
いよいよ最前線へ!庄内藩の猛烈な銃撃を受ける任務の概要は、羽越(現:山形県と新潟県)国境にある関川口(現:山形県鶴岡市)で交戦中の岩国藩(現:山口県)と高鍋藩(現:宮崎県)を援護するというもの。
関川口を守る軍勢は、かつて徳川四天王の一人として恐れられた酒井忠次(さかい ただつぐ)の末裔である酒井忠篤(ただずみ)が指揮をとる庄内藩。
東北でも有数の強豪藩として知られ、この時点で多方面から攻められているにも関わらず、新政府軍を一歩も領内に踏み込ませない善戦ぶりを見せていました。
「……面白い。それほどまでの強敵ならば、相手にとって不足なし!」
ここぞ手柄の立てどころ、とばかり喜び勇んだ旗本隊は明治元1868年(※8日に慶応から改元)9月11日、大雨の中を夜陰に乗じて三里(約12km)進軍したところ、庄内藩からの熱烈な歓迎、すなわち猛烈な銃撃を喰らいます。
味方の死傷者はおびただしく、岩国藩と高鍋藩、そして旗本隊は一度距離をとって睨み合いました。
「うぅむ……さすがは酒井家、聞きしに勝る戦ぶりよ……とて感心ばかりもしておれぬが、いかが致そう」
両藩の大将が考え倦(あぐ)ねているところへ、甲賀隊が「畏れながら」と進言します。
「手前ども、旗本隊が山中を迂回し、敵の左翼を衝きましょうぞ」
確かにそれが出来れば妙案ではありますが、そのルートは非常に険阻で、かつ途中には渓流もあって闇夜を進むのはリスクが高すぎ、とても現実的な作戦とは言い難いものでした。
作戦決行!険阻な山中を迂回して、敵の左翼を衝く甲賀隊しかし、甲賀隊には自信がありました。
「左様な事もあろうかと、あらかじめ物見を巡らして地形を検分し、また敵陣の弱点も探り申した。また、既に数名を潜伏させており、我らが至れば陣中より攪乱させる手筈も整ってございます」
これを聞いた両大将は膝を打って喜び、その作戦を許可。旗本隊の中から甲賀隊と特に選抜された者を別動隊として編成。残りの者は岩国・高鍋両藩と共に正面からの攻撃を再開します。
「よいか。灯りをつけずに夜目を利かせるには……物音を立てずに進むには……」
本隊が庄内藩の注意を引きつけている間に、別動隊は甲賀流忍術の本領を発揮して険阻な山中を踏破。いよいよ最後の渓流を越えようとしたその時です。
「敵だーっ!敵襲ーっ!」
庄内藩の見張りに発見されてしまい、たちまち銃撃の雨が別動隊の頭上に降り注がれました。
「ここまで来たら、後には退けぬ!総員、突撃!」
「「「おぅっ!」」」
手に手に銃に刀に槍に、おのおの得物を構え、敵陣目がけて駆け出したのでした。
【続く】
※参考文献:
藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』吉川弘文館、2011年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
和歌山県立文書館「文書館だより 第36号」和歌山県立文書館、2013年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan