特集「戦国武将の父」【上杉謙信編】越後の龍に遺る為景の合戦DNA (2/3ページ)

日刊大衆

 こうして為景に危機が迫り、彼は以降、まさに戦いに明け暮れた生涯を送る。

 実際、争乱が繰り返された時代に生まれた謙信が後に、「漢の高祖は生涯に七〇余回戦ったというが、父は在世中、一〇〇余戦に及んだ」と述懐した通り、彼が戦いの申し子となったのは、父の影響が大きい。

 ともあれ、為景は守護の定実を伴い、一度は府中を捨てて越中から佐渡に逃亡したものの、ここから巻き返しを図る。

 すると、越後国内の国衆の中から定実と為景方に寝返る者が現れて、房能の兄である顕定は永正七年(1510)六月、長森原(南魚沼市)の合戦で討ち死に。その軍勢には顕定の養子である憲房も同行していた。彼は居城の上野白井城(沼田市)に逃げ帰り、長尾家が歴代、上杉家に仕えたことから、「家郎(家臣)の分際で二代にわたり主人を殺すとは、天下広しといえども聞いたことがない」と嘆いた。

 なお、その憲房の実子である上杉憲政は、関東の支配を狙う北条氏康に追われる形で、越後に逃れる。

 長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を譲り、こうして、上杉謙信が誕生することになるのだが、それはのちの話だ。

 さて、定実は顕定と房能の兄弟が葬り去られた頃から“お飾り”となり、国政が専ら為景に委ねられたことが不満だったようで、永正九年(1512)以降、二人の争乱が本格化。定実がその最中に一時、為景の居城である春日山城(上越市)を留守中に奪ったことから、その後に包囲されて幽閉される事件も起きた。

 こうして越後の国衆は守護と守護代の双方に分断。結果、定実方の宇佐美房忠が討ち死にしたことで、争乱は為景方の勝利に終わり、彼は享禄元年(1528)、一二代将軍の足利義晴から毛氈鞍覆と白傘袋の使用を許された。これはもともと守護に与えられるもので、為景が幕府に事実上の守護と認められた背景にむろん、彼の“賄賂攻勢”があったことは間違いない。

 その後、享禄三年(1530)一月に為景の末子として謙信(幼名・虎千代)が生まれると、同年一一月には新たな争乱の幕が開く。

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