特集「戦国武将の父」【上杉謙信編】越後の龍に遺る為景の合戦DNA (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 武田信玄の父である信虎が家督を継ぐ一年前のこと。のちに、その信玄と竜虎相搏つことになる上杉謙信(長尾景虎)の父の長尾為景も、越後守護代家の家督を継いだ。

 彼は永正三年(1506)に急遽、父である能景の戦死を受けて、一八歳という若さで家督と守護代を継承。すると、あろうことかこの翌年に当時、越後守護だった上杉房能を追放したうえ、自害に追い込んだ。

 上杉家は室町幕府の祖である足利尊氏の正室・清子の実家である一方、房能の実兄が関東管領の上杉顕定という名門。にもかかわらず、為景は守護代に就くと同時に下剋上に乗り出した。府中(上越市)の館を囲まれた房能は実兄の関東管領を頼ろうと、わずかな兵を率いて松之山(十日町市)に逃れたものの、永正四年八月に天水越で自害した。

 とはいえ、いくら下剋上の世でも一〇代の青年がいきなり名門一族の守護の追放を画策することは考えづらい。『関東管領九代記』によると、房能は当初、家臣の讒言で為景を討とうとしたものの、やがてこれが彼の知るところとなって、先手を打ったとされている。

 為景は実際、房能の館を包囲するに当たり、その養子である定実を擁した。むろん、定実の側に立てば、養父の行動に不審を抱いて、その対立相手を支持したともいえる。

 だが、歴史家である西股総夫氏によると、彼は房能の正当な後継者であり、為景が傀儡にしようとしたのであれば、もっと傍系の人物を担ぎ出したはずとされる。

 いずれにせよ、守護代が守護を殺した事実に変わりはなく、為景が房能の自害から二日後、その葬儀を営むと、越後の国衆らの一部がすぐに弔い合戦を口実に挙兵。

 実の弟を殺されながらも関東で反乱が起きたために動くことができなかった兄の顕定も、二年後の永正六年(1509)七月に大軍を率いて越後に進軍し、遅ればせながら弔い合戦に乗り出した。

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