一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】

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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】

江戸時代、日本全国には三百を超える藩(はん)があり、そこを治める藩主が存在していましたが、その中にはどういう事か、死んだ後に藩主となった者がいたそうです。

彼の名は吉川経幹(きっかわ つねまさ)、一体どういう事情によるものなのでしょうか。今回は彼の一生をたどってみたいと思います。

岩国領主・吉川家の重圧を一身に背負う

吉川経幹は江戸時代後期の文政十二1829年9月3日、周防国(現:山口県東部)岩国領主・吉川経章(つねあき)の子として誕生。母親は梅(長井元幹の娘)、幼名は亀之進(かめのしん)と言ったそうです。

吉川経幹。まだあどけない顔で一族の重責を担った。

これと言った不自由もなく育った亀之進はやがて元服して経幹(父の経+外祖父の幹)と改名しますが、16歳となった天保十四1844年11月19日、父の死によって家督を継承。

吉川家の当主として主君・毛利家(長州藩)に出入りするようになると、それまで父をはじめ代々の当主が一身に背負っていた重圧を我が身に受けることになりますが、その事情を知るには、二百数十年の時を遡る必要があります。

忠義ゆえの裏切りが裏目に……

時は戦国末期、この吉川家はかつて中国地方に覇を唱えた戦国大名・毛利元就(もうり もとなり)が、次男・元春(もとはる)を養子に送り込み、三男・隆景(たかかげ)を送り込んだ小早川(こばやかわ)家と共に毛利家(嫡男・隆元-たかもと)を支える「毛利両川(もうりりょうせん)」体制の一翼として重要な位置を占めた家柄でした。

しかし、関ヶ原の戦い(慶長五1600年)において石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に属した吉川広家(ひろいえ)が、東軍の大将である徳川家康(とくがわ いえやす)と密約を交わします。

関ヶ原の決戦に臨む徳川勢。もし毛利軍が動いていたら、東軍に勝ち目はなかった。

「(名目上)西軍の総大将である毛利家は合戦に参加させない代わり、戦後に所領の維持を安堵(あんど。保証)して欲しい

密約を了承し、毛利家の大軍が動かなかったお陰で、不利な戦況を切り抜けられた家康は、両川のもう一翼であった小早川秀秋(ひであき)の東軍寝返りもあって、見事に勝利を収めることが出来ました。

家康の勝利に大きく貢献した「毛利両川」三家はこれで安泰……かと思いきや、家康は実にあっさりと裏切ってくれやがったのです。

「名目上とは言え、西軍の大将である毛利家を赦す訳には行かぬ……確かに所領を安堵するとは申したが、それは吉川家のみであって、毛利など知らぬ

そんな理不尽な……といくら憤ったところで徳川の勝利が確定的となった以上、もはや後の祭り。広家は家康の「古狸」ぶりを痛感させられたのでした。

「お待ち下され!それがしの所領を分割してでも、どうか毛利家の存続だけはお許しを……っ!」

毛利家を思えばこそ、次世代のリーダーと見込んだ家康に「貸し」を作ろうと密約したのに……その忠義が裏目に出てしまった広家は必死に懇願。自分が裏切りの恩賞として得る筈だった領地を、毛利家に献上することを許されます。

それでも一説には実質200万石を超えるとも言われた中国地方の覇者が、約1/7の約30万石まで減封(領地削減)されたとあって、毛利家は窮乏生活を強いられることになります。

主君を想うが故に、家康と交わした密約が裏目に……(吉川広家肖像)。

以来、吉川家は代々毛利家に負い目を感じながら、どれほど冷遇されようとも懸命必死に奉公してきたのでした(※ちなみに、小早川家は秀秋の急死によって無嗣改易=後継ぎがいなかったため御家断絶、領地も全没収されています)。

毛利家との融和協調、人材育成に黒船来航

……そんな広家から12代目の岩国領主となった経幹は、とかく毛利宗家との融和協調に努め、一族を挙げて忠勤に励みました。

また、人材育成の要を感じて弘化四1847年に岩国領の直営学校・養老館(ようろうかん)を創設。子弟たちに文武両道を教えると共に、入学や進級にテストを実施する考試制度を導入。身分や家柄にとらわれない実力主義の普及によって、後に多くの志士を輩出しています。

もちろん自身も日々研鑽して岩国治政に手腕を発揮する生活の中で、正室に順子(木下利愛の娘)を迎えますが、子供が生まれなかったため、側室に井上圓治の娘(本名は不明)を迎えました。

それから安政二1855年8月26日に長男・芳之助(よしのすけ。後の吉川経健)、同六1860年12月24日には三男・重吉(ちょうきち)を授かっています(次男は早世)が、重吉は4歳になった文久三1863年、主君・毛利敬親(もうり たかちか)の養子という名目で人質に出されています。

黒船来航の対応に追われ、沿岸警備を固める武士たち。東洲勝月「米船渡来旧諸藩士固之図」より。

時は前後しますが、嘉永六1853年6月3日にアメリカ海軍の提督ペルリが浦賀に来航した際は江戸警護のために出兵しており、当時25歳だった経幹もまた、たった四杯(隻)の上喜撰(じょうきせん=蒸気船)に夜も眠れぬほど興奮し、列強と渡り合える人材育成に改めて要を痛感した事でしょう。

文字通り毛利藩の柱石として岩国を治め、各地を奔走していた経幹にも、間もなく幕末維新の嵐が迫り来るのでした。

【続く】

※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年

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