本能寺の変は女性が原因?織田信長のお気に入りだった明智光秀の妹・御ツマキの方とは? (2/3ページ)

Japaaan

史料によると、天正五1577年11月に大和国(現:奈良県)で興福寺と東大寺の諍(いさか)いが起きた際、光秀と二人で信長に仲裁を求めた記録や、天正八1580年には公卿たちが上洛した信長へ進物を献上する際、彼女にも帯や酒などを届けたことが伝わっています。

これらのエピソードから、彼女が(1)信長に頼み事が出来る関係にあったこと、(2)公卿たちも無視できない影響力を持っていたこと、つまり「信長のお気に入り」であったことが推測できます。

そんな御ツマキの方ですが、天正九1581年8月7~8日ごろに亡くなってしまいました。

「去七日・八日ノ比歟(=頃か)、惟任(これとう。光秀)ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州(日向守=光秀)無比類(比類なき)力落也」

※興福寺『多聞院日記』より。

文中「信長一段ノキヨシ」という表現について、歴史学者の勝俣鎮夫氏はこのキヨシを「気好し」と解釈。御ツマキの方が信長のお気に入りであり、信長との仲を取り持ってくれた彼女を失ったことで光秀は政治的にダメージを受け、それが信長のパワハラを生み(orエスカレートさせ)、それが本能寺の変の遠因になったのでは、と推測しています。

その死が歴史を大きく変えた?可能性も

古来、権力者の身辺に女性を侍らせ、その寵愛に乗じて力を得た事例は枚挙に暇がありませんが、その栄華は寵愛に比例する非常に不安定なものです。

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