特集「戦国武将の父」【織田信長編】尾張統一の礎を築いた信秀の実像

日刊大衆

写真はイメージです
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 現在、放送中のNHK大河ドラマ麒麟がくる』で俳優の高橋克典が演じている織田信秀。のちに尾張統一を成し遂げて天下人となる織田信長の父は、どんな生涯を辿ったのだろうか。

 かつて尾張は応仁の乱(1466~1477年)で有力大名が東西両軍に分かれて戦ったことを元凶に、政治状況が複雑化して上四郡と下四郡に分かれ、斯波義廉(西軍)と斯波義敏(東軍)が家督を争った。

 すると、織田氏もまた、それぞれ上四郡と下四郡の守護代だった「織田伊勢守家」と「織田大和守家」が義廉と義敏の両派に分かれ、双方の間で抗争が繰り広げられた。

 大和守家の織田敏定が当時、守護所だった下津城(稲沢市)を焼き、清洲城をその代わりにしたことで、尾張の戦乱が拡大する中、実権が両織田氏に移り、さらに双方の重臣(奉行)が勢力を振るい始めた。典型的な下剋上である。

 このうち、大和守家である下四郡守護代の奉行が織田因幡守家と織田藤左衛門家の二家に加えて、歴代の当主が弾正の忠を称した信秀と信長父子の織田弾正忠家である。その居城はもともと勝幡城(愛西市、稲沢市)で、伊勢と交易したことで栄えた港町の津島が近くにあり、ここを押さえる津島衆に対して安堵する書状を発給していたのが祖父、つまり信秀の父である織田信貞(定)。

 織田弾正忠家は津島を支配したことから富を築き、信秀の時代、京の都から蹴鞠の師匠として公家の飛鳥井雅綱を招くほどに繁栄した。実際、大河ドラマでも信秀の家臣が蹴鞠に興じるシーンが登場しているが、門弟になるためには雅綱に任免料として、決して安いとは言えない太刀一振りと銭二貫を納めなければならなかったという(谷口克広「天下人の父・織田信秀」)。

 一方、信秀は当時、同じ下四郡奉行職の織田藤左衛門や守護代の織田達勝と争い、その後に講和しながらも対立関係が続いたが、雅綱が尾張に下向してきたことから二人と交流を再開。

 信秀が公家を招く財力を持つ実力者であると同時に、蹴鞠会を口実に守護代らと関係改善に努めた様子を窺い知ることができる反面、この時点ではまだ尾張で抜きん出た存在とまでは言えなかった。

 だが、八年後の天文一〇年(1541)、達勝が尾張熱田(名古屋市)の地侍である加藤一族の諸権利を安堵した判物(書状)に、「弾正忠(信秀)がそう申すので……」と読み取ることができる一文がある通り、当時、謀略で落とした那古屋城に居城を移していた信秀は、近在の熱田湊を支配下に置くため、守護代を動かして判物を出させた。

 さらに、信秀は五年後に信長が一三歳で元服すると、那古屋城を譲り、自身は熱田近くに築いた古渡城に移り、この頃から多忙な日々を送る。『信長公記』に「備後殿(信秀のこと)は国中たのみ勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三州(三河)の国へ御出勢」とある通り、信秀は隣国の美濃と三河に出陣し、すなわち、他国に侵略を開始した。

 武田信玄の父である武田信虎が甲斐を平定してから隣国に攻め寄せていたのに対し、信秀は尾張でも随一の実力者とはいえ、立場としては奉行職に過ぎず、下剋上の習いに従えば、守護代や守護を放逐して事実上の国主になってもよかった。しかし彼が、そうしなかったのは当時の織田弾正忠家の限界なのか、それとも彼自身の考えなのか。

 ただ、信秀は出陣に際し、「たのみ勢」として守護代の直臣の加勢を得ており、事実上、“オール尾張”として三河と美濃に進攻。三河戦線については、ここで生まれた徳川家康の父(松平広忠)を取り上げる次号で詳述するとして、今回は美濃戦線の謎に触れたい。

■信長の“尾張統一”は弾正忠家の財力のお陰

 通説によれば、信秀は天文一三年(1544)に越前の朝倉勢とともに、守護代・斎藤利政(道三)の居城である稲葉山城(岐阜市)の城下近くにまで攻め寄せた。一説では合わせて二万五〇〇〇の大軍だったともされ、道三はこのとき、籠城と決めて城下近くの村々は織田勢に蹂躙されたものの、日没近くになり、信秀が軍勢を一度、退き始める機会を待っていた。

 稲葉山城の城門が開くと、斎藤勢が出撃して、背後から織田勢に攻め掛かった。不意を衝かれた形の織田勢は崩れ立ち、木曽川に逃れて溺死者が後を絶たなかったとされ、信秀は五〇〇〇の犠牲を出して大敗した。

 ドラマ『麒麟がくる』では、以上の合戦が天文一六年(1547)の出来事として描かれている。では、一三年と一六年のどちらが正しいのか。

 連歌師の宗そう牧ぼくが斎藤勢に大敗した直後に当時、那古屋城にいた信秀を訪ね、それが天文一三年であることから、ドラマの天文一三年説は誤りとなるが、NHKに代わって弁解するなら、各史料から信秀が天文一六年にも稲葉山城を攻めて大敗したと読むことができる。

 一方、『信長公記』の記述が年次を欠くために断定できないが、道三は翌天文一七年九月、勝ち戦に乗じて織田方の城になっていた大垣城を攻め、信秀が救援に駆けつけたことから兵を引いた。

 すると、今度は信秀の出陣中を狙い、清洲衆(守護代の兵)が古渡城を囲んだという。信秀は当時、三河戦線でも敗れ、美濃戦線では大敗し、尾張国内でも清洲衆が蜂起して窮地に陥った。

 そのため、道三と和睦せざるをえなくなり、天文一八年(1549)頃に発病。祈祷や治療の甲斐もなく、失意のうちに四二歳でこの世を去った。これまた、『信長公記』は没年の年次を欠くが、天文二〇年から翌年にかけてのことだろう。

 そして、尾張統一は信長の代に実現する。彼が信秀のできなかったことを成し遂げられたのも、父が尾張随一の実力者で、弾正忠家の財力があったればこそだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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