特集「戦国武将の父」【織田信長編】尾張統一の礎を築いた信秀の実像 (1/4ページ)
現在、放送中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で俳優の高橋克典が演じている織田信秀。のちに尾張統一を成し遂げて天下人となる織田信長の父は、どんな生涯を辿ったのだろうか。
かつて尾張は応仁の乱(1466~1477年)で有力大名が東西両軍に分かれて戦ったことを元凶に、政治状況が複雑化して上四郡と下四郡に分かれ、斯波義廉(西軍)と斯波義敏(東軍)が家督を争った。
すると、織田氏もまた、それぞれ上四郡と下四郡の守護代だった「織田伊勢守家」と「織田大和守家」が義廉と義敏の両派に分かれ、双方の間で抗争が繰り広げられた。
大和守家の織田敏定が当時、守護所だった下津城(稲沢市)を焼き、清洲城をその代わりにしたことで、尾張の戦乱が拡大する中、実権が両織田氏に移り、さらに双方の重臣(奉行)が勢力を振るい始めた。典型的な下剋上である。
このうち、大和守家である下四郡守護代の奉行が織田因幡守家と織田藤左衛門家の二家に加えて、歴代の当主が弾正の忠を称した信秀と信長父子の織田弾正忠家である。その居城はもともと勝幡城(愛西市、稲沢市)で、伊勢と交易したことで栄えた港町の津島が近くにあり、ここを押さえる津島衆に対して安堵する書状を発給していたのが祖父、つまり信秀の父である織田信貞(定)。
織田弾正忠家は津島を支配したことから富を築き、信秀の時代、京の都から蹴鞠の師匠として公家の飛鳥井雅綱を招くほどに繁栄した。