台東区浅草の観光名所である浅草寺の「西仏板碑」について調べてみた

心に残る家族葬

台東区浅草の観光名所である浅草寺の「西仏板碑」について調べてみた

1970年代から今日に至るまで、若者世代のファッション文化の牽引役であり続けてきたJR東日本山手線の原宿駅が、今年3月21日から東京都内最古とされる木造駅舎と、鉄筋新駅舎との供用を始めた。「古いもの」と「新しいもの」が今現在「共存」している格好だが、開催延期が決まったことから、いつになるのかは不明だが、東京オリンピック・パラリンピック開催後に解体し、防火に適した素材を用い、木造駅舎を再現した形で建て替えられるという。

■歴史的モニュメントはどのような形で残し続けるべきか

歴史的な建物やモニュメントは、たとえ朽ち果ててしまっていても、「オリジナル」をできるだけ保ちながら残した方がいいのか。それとも、時代に即した新素材や耐震設計などを施し、「再現」された方がいいのか。ものによる。時と場合によるのは言うまでもないのだが。

■1300年代にできた台東区浅草の浅草寺の西仏板碑


コロナウイルスの世界的大流行により、ひと頃に比べると国内外の観光客がめっきり減った、東京の「シンボル」「ランドマーク」のひとつである台東区の浅草寺だが、雷門から仲見世を通り抜け、宝蔵門を入った後に現れる本堂の左側に位置する影向(ようこう)堂の前には、東京都内でも最大規模の、高さ219.9センチ、幅48.0センチ、厚さ4.7センチの、上部と中央部が破損しているものの、両脇を石の側柱で支えられた「西仏(せいぶつ)板碑」がある。それは、埼玉県の秩父地方で採れた「秩父青石」こと緑泥片岩(りょくでいへんがん)製で、上部が三角形に成形され、中央上部に大きな種子(しゅじ)が彫られているのを特徴とする、典型的な武蔵型板碑だ。この板碑の正確な制作年代は不明だが、鎌倉時代末期から室町時代初期、1300年代のものだと考えられている。

■保全や修復を重ねてきた浅草寺の西仏板碑


この板碑で大きく目立つ種子は、釈迦如来を表す「バク」で、その下には肉眼では判別しがたいが、蓮台に立つ地蔵菩薩と蓮華を活けた花瓶、右側には童子像、下部には、具体的にどんな人物だったのかはわかっていないが、造立者の僧侶「西仏」による、家族の今生と来世における幸福を願う文字が記されている。そしてこの板碑は、寛保2(1742)年に暴風雨によって3つに折れてしまった。最上部は現在位置よりも雷門側に近い伝法(でんぽう)院内の稲荷社のそばに置かれていたというが、現存していない。しかし文化11(1814)年に、10人の有志が2本の側柱を立て、今で言う「保全」「修復」を行った。そのおかげで、大正12(1923)年の関東大震災や、第2次世界大戦末期の昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で、浅草寺は甚大な被害を被ったが、この板碑は倒壊することなく、今日もその姿を保ったままでいるのだ。

■浅草寺の歴史は古い

浅草寺は徳川家康が幕府を開いてからの「江戸」に始まり、「明治」「大正」「昭和」…の観光地のイメージがあまりにも強く、古都・京都や奈良の名刹と比べたら、「新しい」寺だと思われがちだが、実はそうではない。



■浅草寺の始まりとは?

浅草寺を含む浅草一帯は現在とは大きく異なり、大昔は湿地帯の上にできた砂州(さす)のような場所だったようだが、寺伝の『浅草寺縁起』によると、推古天皇36(628)年3月18日の早朝、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、江戸浦(現・隅田川)で魚を獲っていたところ、一体の仏像が投網(とあみ)の中にかかった。それは純金無垢の観音像で、1寸8分(約5.4センチ)と、とても小さなものだった。仏像のことを知らなかった2人はそれを水中に投じ、再び網を打った。しかし再び、仏像が網にかかるだけで、魚は採れない。仕方なく2人は仏像を持ち帰り、地域の郷司(ごうじ)・土師中知(はじのなかとも)に相談したところ、土師は「これはとてもありがたい聖観世音菩薩だ!」と言って、それを受け取った。更に土師は出家し、観音様に帰依した。そして翌日19日の早朝に、里の童子たちがアカギの草で作った庵に、その仏像を安置することにした。以上がそもそもの、浅草寺の始まりだった。

■浅草寺は今も昔もランドマークであり続けてきた

しかも現在同様、隅田川沿いの浅草一帯は、房州(現・千葉県南部)・奥州(現・福島県、宮城県、岩手県、青森県)方面を往来するための、重要な交通の要衝であり続けてきたことから、古代から多くの人々が生活を営んできた地域だった。それゆえ奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代…と、江戸時代よりもはるか前から、わざわざ遠くから多くの人々が訪ねてくる、聖観音菩薩信仰を中心とした「ランドマーク」であり続けていたのだ。

■歴史書に記されている浅草寺の存在感

「西仏板碑」造立前後の歴史を概観すると、例えば鎌倉時代中後期には、後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう,1258〜?)の自伝とされる『とはずがたり』(1313年頃成立か)の中で、尼となった二条が正応2(1289)年に浅草寺を訪れ、観音様のことを「霊仏と申すもゆかしくて参る」と書き記している。そして室町時代になってからの正平7(南朝)/観応3(北朝)(1352)年、初代将軍・足利尊氏(1305〜1358)が浅草寺を参詣に訪れている。彼らは言うまでもなく「都人」で、遠路はるばる、わざわざ東国にやってきたのだ。そこで浅草寺参詣を行ったということは、浅草寺そのもの、そして祀られている聖観音菩薩が参詣するに値する霊験あらたかな「霊仏」だと当時の人々から認識されていたことを証している。

確かに平安後期以降、関東武士が台頭し始めた当時の英雄のひとり、源義家(1039〜1106)が延久2(1070)年に、奥州討伐の武運を祈った。そしてその末裔である義朝(1123〜1160)は、承暦3(1079)年に観音堂が炎上した際、本尊は自ら火炎を逃れ、近くの榎の梢に避難したという故事を聞き、永治2(1142)年または久安2(1146)年にその榎で観音像を彫り、奉納した。更に義朝の息子・頼朝(1147〜1199)は治承4(1180)年に、平氏追討の戦勝祈願を行なってもいる。

■原宿駅をどう残してどう新しくするか

冒頭に紹介した、大正13(1942)年に建てられた旧原宿駅の木造駅舎だが、火災や地震対策を十分に行なった上で、できることなら、浅草寺に残る「西仏の板碑」のように、きちんと補強されながら、後世に保存して欲しいものである。「駅」としての現実的な役割を終えてしまったものであっても、その古い駅舎は、竹下通りに繰り出す多くの若者たちを見送り、場所の空気を十分満喫した後、自分の家に戻る彼らを迎え入れていたのだ。かつての若者たち、そして今の若者たちにとっても、日本の最先端の文化やファッションのモニュメントであり続けている原宿だからこそ、その駅が「役目を終えた」からと、混雑緩和や利便性・快適性のために建て替えられた鉄筋の建物に取って代わるのは、あまりにも寂しいことだ。それは建物や板碑などの「もの」に限らず、「人」も同じだ。

■最後に・・・

「もの」を大事にできない人は、「人」も大事にはできない。わかり切っている、当たり前のことだけに、「人」はすっかり忘れてしまっている。たとえ欠け、ぽっきりと折れてしまった、「何だかよくわからない」古びた板碑に対してすら、大切に取り扱った、浅草寺に詣でていた江戸の人々の気持ちを、「原宿」ならではの新しくきらびやかなものに心奪われがちな我々だからこそ、思い直してみるべきではないだろうか。

■参考資料

■浅草寺教化部(編)『金石碑 浅草寺』1975年 浅草寺教化部
■金龍山浅草寺(編)『あさくさかんのん 【図説】浅草寺 今むかし』1996年 金龍山浅草寺
■五木寛之『百寺巡礼 第5巻 関東・信州』2004年 講談社
■台東区教育委員会生涯学習課文化財担当(編)『たいとう名所図会 史跡説明板ガイドブック』2017年 台東区教育委員会生涯学習課文化財担当
■「JR原宿駅新駅舎の供用始まる ホーム2面化、コンコースは3倍に」『シブヤ経済新聞』2020年3月21日 
■「浅草寺遺跡」『台東区ホームページ』
■「西仏板碑」『台東区文化ガイドブック』
■「東京都文化財めぐり:浅草散策コース 3 西仏板碑」『東京都教育委員会』
■『聖観音宗 あさくさかんのん』 浅草寺 公式サイト

「台東区浅草の観光名所である浅草寺の「西仏板碑」について調べてみた」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧