特集「戦国武将の父」【徳川家康編】松平広忠に背負われた負の遺産 (2/3ページ)
当時、東三河の侵略に意欲を見せる駿河の今川家が、若い当主(今川氏輝)に代替わりして国内を固める必要があった。
一方、のちに三河を席巻する尾張の織田信秀も他国に侵攻する余裕がなく、清康はその隙を突いて三河の国衆を服属させたためだ。
こうした中、清康は天文四年(1535)一二月三日、同じ松平一族で、尾張の守護代・織田達勝に従属していたと考えられる信定の居城・守山城(名古屋市)を攻めるため、岡崎城を出陣。
ところが、その二日後に城を包囲中、重臣の阿部正澄が敵に内通しているとの流言を発端に、早とちりした子供の弥七郎に背後から斬りつけられて惨殺されてしまう。これを「守山崩れ」という。
当時、その子である広忠は一〇歳。松平一族を統率することができないばかりか、岡崎城にいれば、信定らに殺されかねない。そこで、広忠はここから逃れ、城は信定のものとなった。
一方、阿部正澄はこのとき、弥七郎の罪を償おうと、幼い広忠を奉じて伊勢に亡命。広忠はその後、今川義元の援助を受け、駿河を経て三河の毛呂城(岡崎市)に落ち着いた。
この間、東三河が事実上、今川家に占領され、西三河も織田信秀の圧力を受ける中、広忠は今川家の支援により、天文六年(1537)六月にようやく岡崎城に戻り、一二歳で元服。
やがて父の仇というべき信定が死去したものの、尾張の信秀に安城城に攻め入られ、父・清康の居城だった城を織田方に奪われてしまう。
今川家に支えられることでようやく岡崎を維持することができた広忠は、三河と尾張の国境である刈谷城主の水野忠政の娘を妻に迎えた。
彼女が家康の生母於大で、翌天文一一年(1542)一二月、嫡男の竹千代(家康)が生まれた際、松平家は隆盛時と比べ、ジリ貧の状況だった。
しかも、頼りにしていた水野家で忠政が没し、子の信元が跡を継ぐと、信元が織田信秀に属してしまった。
広忠は今川家の機嫌を損なわないために於大を離縁。幼い竹千代は母と引き離された。