特集「戦国武将の父」【徳川家康編】松平広忠に背負われた負の遺産 (1/3ページ)
この連載で3回にわたって特集してきた有名戦国武将の“父”。輝かしい戦果を残した武田信玄や上杉謙信、織田信長がいずれも、その莫大な財産を残されたのとは対照的に、最後を飾る徳川家康は父である松平広忠から人質生活という運命を背負わされた。
その舞台となる三河(愛知県東部)は永正八年(1511)に細川成之が死去して以降、甲斐や越後、尾張と違って守護が不在だったようで、土豪の松平氏がこれに代わり、西三河で勃興した。
広忠の父で安城城の城主だった松平清康は一三歳のとき、一族の中でも庶家に当たる安城松平家の家督を継承。その彼は家康以前の松平一族が生んだ最大のスターで、同じ一族(岡崎松平家)の城である岡崎城を奪い、広忠が生まれてしばらくした享禄二年(1529)、東三河の吉田城を攻め落とすと、さらに、その翌年頃には岡崎城を現在の場所に移して城下を整備し、菩提寺の大樹寺を造営した。
のちに、この岡崎城で生まれた家康が天下人に躍り出ることになる。その基礎を築いた祖父の清康は以降も攻め手を緩めることなく、通説によれば、三河をほぼ統一したともされる。
実際、彼が優れた武将だったことは確かなようで、大久保彦左衛門は後に著書『三河物語』で、「清康、三十まで御命長らへさせ給うならば、天下をたやすく治めさせ給わん」と嘆いている。これは二五歳で亡くなった清康があと五年、長生きすれば天下を取ったということだが、むろん、割り引いて考えなければならない。