殺生関白・豊臣秀次の悪行の数々…わずか15歳で処刑された駒姫の悲劇

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殺生関白・豊臣秀次の悪行の数々…わずか15歳で処刑された駒姫の悲劇

殺生関白との呼び名を持つ豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)。豊臣秀吉の甥であり、後継者として関白の地位にまで上り詰めた秀次でしたが、自らが行ってきた悪行により自身どころか親族もろとも処罰されました。ただし、秀次の悪行は捏造されたとの見方もあります。

殺生関白・秀次が行ってきた悪行の数々

秀次は、死罪を言い渡された罪人を切ることを好んでいました。手足を縛りつけた罪人に対して、胴切りを楽しんでいたのだそうです。

豊臣秀次像/瑞泉寺蔵(wikipediaより)

「殺生関白行状記」によると、一思いに切ればいいものを、「怖いか、苦しいか」といたぶりながら斬っていたとか。

また、あるときは新しい遊びでも思いついたように、身重の側室を呼び出します。「お腹の子は本当に秀次の子か」と聞き、怯えながらうなずく側室に対して胎児を掴みだしたというエピソードもあります。

これらの悪行が秀吉の耳に入り、秀次は自刃を言い渡されるのです。

秀次が自刃した半月後、39人の秀次の近親者が京都の三条河原で公開処刑されました。秀次の首を目の前に妻子たちが処刑される様子は、見物した者が後悔するほど凄惨だったそうです。

秀次に嫁ぐ前だったにもかかわらず処刑された駒姫

近親者を次々と処刑していったことからも、秀次に対して異常な憎しみを秀吉が感じていたと想像できます。後継者として関白の地位までつけた甥に対して、あまりにもむごい仕打ちをした秀吉。その憎しみは、まだ秀次に嫁いでいなかった駒姫にまで向かいます。

駒姫像(wikipediaより)

伊達政宗の叔父にあたる最上義光(もがみ よしあき)を父に持つ駒姫は、秀次に嫁ぐため京都へやってきました。しかし、秀次に会う前に秀次は自刃してしまいます。その半月後、駒姫自身も秀次の近親者として処刑されることに……。

まだ嫁ぐ前だったので、父親である最上義光は駒姫の助命に奔走しますが叶いませんでした。夫となる予定だった秀次と駒姫が対面したのは自分が処刑される場所だというから、悲劇としか言いようがありません。

すでに秀次は首だけの存在になっており、そこで駒姫は辞世の句を詠み、15歳という短い生涯を終えたのです。

おわりに

当時、日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスは、「分別のある思慮深い若者」と秀次を評しています。ただし、後に「野獣のような」という表現もしていることから、秀次には二面性があったのかもしれません。

現在では、秀次の悪行は秀次への憎しみを正当化したかった秀吉が捏造したという話もあります。

豊臣秀吉像(wikipediaより)

秀次に対する仕打ちにより、秀吉は豊臣家の親族の数を減らすことになります。そして、関ヶ原の合戦で徳川に属した大名が増えた起因になったのではないかとも言われています。秀吉の異常な憎しみが、豊臣家滅亡に繋がったのかもしれませんね。

参考書籍

戦国武将の本当にあった怖い話 実録怪談 戦国の怖い話 日本史未解決事件ファイル

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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