実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【三】

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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【三】

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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【二】

時は幕末・文久三1863年2月、江戸で剣術修行に励んでいた平山五郎(ひらやま ごろう)は、京都で徳川将軍の上洛・滞在を警護する浪士組(ろうしぐみ)に応募します。

六番組に配属された五郎は、同僚となる水戸の暴れ者たちと一悶着を起こしますが、水戸衆のボスである六番組小頭・芹沢鴨(せりざわ かも)の尊攘思想に魅入られ、芹沢の片腕と認められていくのでした。

芹沢鴨に従い、京都で壬生浪士組を結成!

「……何だと?」

さて、紆余曲折あってようやく京都についた浪士組ですが、ここで発起人・清河八郎の陰謀が発動します。

「これより諸君らには、尊王攘夷の先駆けとして江戸に向かって貰う!」

京都で将軍を警護する話は一体どうなったんだ!そんな事なら、最初から江戸に居ればよかったではないか!……そんな不満が続出しながら、報酬目当てに参加した多くの者たちは、渋々江戸へとトンボ返りして行くのでした。

そんな中、初志を貫徹するべく京都への残留を決めたのが、後に新選組の局長となる近藤勇(こんどう いさみ)と、我らが?芹沢鴨でした。

京都残留を決意した近藤勇。Wikipediaより。

「我々は、あくまでも初志を貫徹し、公方(将軍)様をお守り致す!」

とは言え、京都に残るということは浪士組からの脱退を意味しており、イコール当てにしていた報酬を貰いそびれ、京都で食い詰める未来が待つばかりです。

しかし、一度「男を上げる」と江戸を出てきた以上、いくら命令とは言っても、京都で何もせずトンボ返りではカッコ悪いことこの上ありません。

「……となれば、俺は芹沢先生についていくぜ!」

先のことは先のこと。芹沢先生と一緒なら、きっと何とかできる筈……と芹沢鴨に従ったのは、ブレーンの新見錦はじめ、両腕となっている平間重助平山五郎、そして年若くも根性のある野口健司の4人。

対する近藤勇は、自身が経営する道場・試衛館(しえいかん)の門弟や同志らを率いており、人材の質&量ともに充実していました。

「近藤君……どうだろう、ここは尽忠報国の志を共にする仲間として、力を合わせないか」

「解りました。芹沢さん、共に闘って参りましょう!」

かくして芹沢鴨は近藤勇たちと手を結び、やがて壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ)と称するのでした。

水戸派VS試衛館派……繰り広げられる内輪もめ

……とは言え、芹沢も近藤も互いを利用しようと手を組んだに過ぎないため、壬生浪士組の内部では芹沢率いる「水戸派」と、近藤率いる「試衛館派」に分裂した状態が続きました。

そんな状態を解決するべく「芹沢さんも近藤さんも落ち着いて……これからは、私が壬生浪士組のトップに就任して、皆さんをまとめましょう!」と意気込んだ殿内義雄(とのうち よしお)が「「てめぇは黙ってろ!」」とばかりに暗殺されてしまいます。

犯人は水戸派か試衛館派か、あるいは長州藩士か、心当たり(性格に難?)がありすぎて真相は謎のままですが、下らない内輪もめにうんざりした根岸友山(ねぎし ゆうざん)や粕谷新五郎(かすや しんごろう)らが次々に去っていき、いよいよ芹沢ⅤS近藤の対立構造が鮮明に。

「試衛館の連中め……」副長助勤に就任した平山五郎(イメージ)。

権力争いの一環として五郎は副長助勤に就任しますが、特に何を補助する訳でもなさそうで、あまり実態のない役職だったみたいです。

【壬生浪士組・役職図】
局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
副長:平間重助、土方歳三、山南敬助
副長助勤:平山五郎、野口健司、沖田総司、永倉新八、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助……
※芹沢を除き順不同。諸説あり

「……よそでやっておくんなはれ」

浪士組の上洛以来、芹沢・近藤たちに自宅を間借りさせ(られ)ていた壬生村の郷士・八木源之丞応迅(やぎ げんのじょうまさはや)は、ご近所さんから「身ぼろ組(身なりの貧しい、野蛮な関東の連中)」などと陰口を叩かれて、うんざりしていました。

わざわざ関東くんだりからやって来て、何をするでもなくぶらぶら暮らして金銭食糧を強請(ゆす)りたかり、内輪もめばかりしている自称「勤皇報国の志士」集団……さぞや迷惑だったことでしょう。

会津藩お預かりで「身ぼろ組」を卒業

そう思われていたことは身ぼr……もとい壬生浪士組の面々も承知していたようで、志だけで京都に残ってみたはいいけれど、資金源もないままでは単なる破落戸(ゴロツキ)集団で終わってしまいます。

「おぃ新見さん、どうすンだよ」

市中見回りと称して京都の街をぶらついてはチンピラに喧嘩を売ったり、商家に押しかけては用心棒代をせびったりする生活に飽きてきた五郎が、新見錦に詰め寄ります。

去る3月に将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)が上洛した際、その警護の名目で来た(壬生浪士組として居残った)にも関わらず、幕府の役人からまるで相手にして貰えなかったこともあって、京都に居続ける理由を見いだせなくなっていたのです。

「……まぁ焦るな平山君。芹沢先生には……ちゃんと考えがある」

京都守護・松平容保。Wikipediaより。

と言うのも、京都守護職を務めている会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)が、その激務ゆえ「猫の手でも借りたい」と勤皇報国の人材を求めているそうで、壬生浪士組に白羽の矢が立ったとの事でした。

「おぃ喜べ……俺たちは会津藩のお預かりになったぞ」

近藤勇と一緒に帰ってきた芹沢鴨がそう告げると、一同は「これでいよいよ、御公儀のお役に立てる」と喜び勇んだのでした。

【続く】

※参考文献:
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、2009年
箱根紀千也『新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助』ブイツーソリューション、2016年
流泉小史『新選組剣豪秘話』新人物往来社、1973年

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