実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【五】

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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【五】

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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【四】

時は幕末・文久三1863年、晴れて会津藩(京都守護職)のお預かりとなった壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ)は、武士らしい体裁を整えて、それまでの内輪もめ(水戸派VS試衛館派)を解消するべく努力していました。

しかし、そんな中で筆頭局長である水戸派のボス・芹沢鴨(せりざわ かも)が次第に暴走を始めてしまいます。

芹沢の片腕として活躍していた隻眼の剣術家・平山五郎(ひらやま ごろう)は、芹沢を止めることが出来るのでしょうか。

治安維持で来た筈が……大阪で乱闘事件

さて、文久三1863年6月、壬生浪士組が不逞浪士を取り締まるため、京都から大阪に出張していた時のことです。芹沢たちが市中を見回っていた時、前方から小野川部屋(力士)の一団がやって来ました。

「……おい、邪魔なんだよデブ。さっさと道を開けんかい」

まず突っかかったのは、安定と信頼?の芹沢先生。しかし、小野川部屋の力士たちも怯みません。

「ふざけるな。関東から物乞いにやって来た『身ぼろ組』のくせに、でかい面すンじゃねぇ!」

「けっ、関東の『身ぼろ組』がナンボのモンじゃい!」いきり立つ力士たち(イメージ)。

意気込んだのは、前頭の熊川熊次郎(くまがわ くまじろう)。ここで退いたら大阪力士がナメられる……よくあるチンピラ同士のいさかいですが、ここで芹沢がやらかします。

ちょっと鳩尾(みぞおち)でもえぐってやろうと鉄扇を取り出したつもりが脇差を抜いてしまい、その勢いでズブリと刺し殺してしまいました。

(あっ……やべっ)

治安維持に来ておきながら、一般人(少なくとも犯罪者ではない)を殺っちまった……小野川部屋の連中は、驚きと怒りで固まっています。

「……けっ、壬生浪士組をナメたらこうなンだよ。覚えとけバーロwww」

強がって通り過ぎた芹沢たち8名(山南敬助、沖田総司、平山五郎、野口健司、永倉新八、島田魁、斎藤一)ですが、その晩、力士たちの「お礼参り」を喰らいました。

「出て来い、関東のチンピラ共!熊次郎の敵討ちだ!」

「うるせぇデブ共、こちとら尊皇報国の壬生浪士組……野郎ども、やっちまえ!」

大阪力士と斬り合う五郎たち

この「戦闘」で、五郎は胸をしたたかに打たれて負傷してしまいますが、きっと苦手な右側(※なぜか失明した筈の左目側の方が、隙がなかった)から攻撃を受けてしまったのでしょう。

結局、この件について奉行所は「力士側に非がある」と判断。小野川部屋から壬生浪士組に50両の賠償金が渡されていますが、奉行所としては「大阪で面倒ごとをこじらせたくない」という本音があったか、あるいは50両の中からいくらかシェアして(賄賂を)貰ったのかも知れません。

腹いせに大砲を撃ち込む!芹沢鴨の暴走は続く

それからと言うもの、すっかり吹っ切れてしまったのか、芹沢一派の乱暴狼藉は留まるところを知りませんでした。

「おい芹沢さんよ、アンタ自分が何してるか解ってンのか?勝手な金策は切腹だぞ!」

「うるせぇな……俺ぁ手前ェのカネじゃなくて、隊の任務に必要なカネを用立ててやってンじゃねぇか……会津のお殿様が、あまりにケチなモンでな」

「会津にだって、予算の都合ってモンがあるんだろうよ……とにかくこれ以上、壬生浪士組の評判を落とすような真似をすンじゃねぇよ!」

「……へいへい」

芹沢一派の乱暴狼藉に頭を痛めていた副長・土方歳三。

後に新選組「鬼の副長」と恐れられた土方歳三(ひじかた としぞう)が芹沢に詰め寄る姿が、この頃は日常となっていました。

「土方君……少し静かにしてくれないか……あまり怒鳴り散らしていると、身体に『毒』だよ……」

口を挟んだのは、芹沢のブレーン新見錦(にいみ にしき)。その傍らには腹心の平間重助(ひらま じゅうすけ)と平山五郎が控えています。

「と……とにかく、今後は謹んで貰いますよ」

そんな土方を嘲笑うかの如く、文久三1863年8月13日、芹沢一派は資金の「融資」を断られた腹いせとして、京都の生糸問屋・大和屋庄兵衛(やまとや しょうべゑ)の店に大砲を撃ち込み、焼き討ちする暴挙に出ました。

「用意、てー!」

「我らが尽忠報国の志を邪魔するヤツぁ、誰であろうと容赦はしねぇぞ!分かったか馬鹿野郎!」

……この一件で会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は激怒して局長・近藤勇(こんどう いさみ)を呼び出して叱責。見捨てられたくない近藤は平謝りで「必ず、芹沢を始末する」事を約束するのでした。

禁門の変で魅せた!芹沢鴨「男の花道」

そんな調子で信用ガタ落ちの壬生浪士組でしたが、文久三1863年8月18日に起きた長州藩のクーデター「禁門(蛤御門)の変」には会津藩のお手伝い(義勇軍)として御所内の警備を命ぜられます。

……が、配置されたのは戦線からずっと後方で、手柄を立てる機会(と言うより警備する必要)はなさそうでした。会津藩からあまり信用されていなかった事が察せられます。

しかも連絡が遅れたため、御所に駆けつけた時には御所の門がすっかり封鎖されており、警備する会津藩兵たちにも連絡が行っていなかったようです。

「何者だ!……壬生浪士組?そんな話は聞いておらぬ!帰れ帰れ!」

どんなに事情を説明しても、中に入れて貰えず、仕方がないから帰ろうか……と、近藤や土方が諦めかけたその時です。

「我らは会津藩お預かり、壬生浪士組……通しな」

悠然と御所へ入る芹沢(イメージ)。

悠然と現れた芹沢鴨は、鉄扇一つでビッシリと突きつけられた槍を払い退け、ゆっくりと進んで行きました。常人であればすぐに槍衾(やりぶすま)でしょうが、ここに芹沢のカリスマ性が窺われます。

「おぉ……やっぱり芹沢先生は只者じゃねぇ……野郎ども、先生に続け!」

「「「おう!」」」

意気揚々と新見錦、平間重助、平山五郎ら水戸派が続き、その後から試衛館派が追従。御所に入れた壬生浪士組は、ぶじ配置につくことが出来たそうです(……が、配置が配置だけに、そこまで長州藩が攻めて来ることはなく、手柄は立てられませんでした)。

「恐るべし、芹沢鴨」……禁門の変で存在感を発揮したことから、松平容保は壬生浪士組に「新選組(しんせんぐみ。新撰組)」の名を与えます。

芹沢は言わば「新選組の父」とも言えそうですが、もしかしたら容保が近藤に対して「メンバーを新しく選び直せ(≒芹沢一派を粛清しろ)」というメッセージを送っていたのかも知れません。

【続く】

※参考文献:
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、2009年
箱根紀千也『新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助』ブイツーソリューション、2016年
流泉小史『新選組剣豪秘話』新人物往来社、1973年

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