感染症の研究者が肺結核で死亡!? “近代医学の祖”緒方洪庵の死因 (2/3ページ)
洪庵は、そのタネを管理して種痘(天然痘の予防接種)を確実に行うため、その年、大坂に除痘館を開設。だが、種痘は「悪説流布して、牛痘は益なきのみならず、かえって児体に害あり」(洪庵の『除痘館記録』)という噂が立ち、「種痘すると牛になる」などといった非科学的な話も出回ったという。
それでも除痘館の活動は安政五年に政府公認となるなど、活動が本格化する中、日本にこの間、重大な事件が発生した。
それがペリーの来航で、彼はこの翌年の嘉永七年(1854)に再来日し、三月三日に幕府と日米和親条約を締結。
洪庵は直後の三月二五日、のちに暗殺される甥で吉備津神社(岡山市)の神官に、次のような手紙を出した。「じつにこの節、天下の一大事。二百余年の恩沢に浴しながら、うかうかと寝食を安んじおり候時節にはこれなく、身分相応の忠節は尽くしがたき事にこれあり候へども、蛆虫同然の身分何をいたし候ても、さらに省みる人もこれありまじく、ただ慷慨にて日を暮らし候事なり」
洪庵は江戸に留学していた当時、按摩のバイトをしながら学費を稼いだ苦学生だったとされるだけに、寝食を安んじていたとは思わないが、黒船の来航と条約の締結は彼をして、そう思わせるくらいの出来事だったということだろう。
洪庵はまた、蛆虫同然で省みる人もいないため、ただただ慷慨(悲憤)するしかないと嘆き、まるで尊王攘夷が同志をアジるときのような過激さも垣間見ることができる。
■感染症対策の“プロ”が肺結核で死亡は本当か
しかし、洪庵はそのまま政治活動にのめり込まず、続いてコレラ対策に着手。除痘館の活動が政府公認となった安政五年夏、大坂でコレラ菌が猛威を振るったためだ。
むろん、当時はペニシリンなど抗生物質治療薬がなかった時代。オランダ医師のポンぺ(幕府が招いた外国人医学教官)の治療法が、その門下生である松本良順(のちの三代目西洋医学研究所頭取、初代陸軍軍医総監)によって訳されていたものの、洪庵はそれだけでは不十分と考え、洋書からコレラの項を抽出して訳し、『虎狼痢(コロリ)治準』を刊行した。