感染症の研究者が肺結核で死亡!? “近代医学の祖”緒方洪庵の死因

日刊大衆

写真はイメージです
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 現在、全世界で猛威を振るう新型コロナウイルス。幕末の日本でも安政五年(1858)、「コロリと死んでしまう」ことから「コロリ」と恐れられたコレラが大流行し、江戸だけで三万人が犠牲になった。当時、こうした感染症と戦った医師がいた。

 緒方洪庵。蘭学者でもある彼は大坂で適塾を開き、福沢諭吉に加え、橋本左内や大村益次郎ら、幕末や明治に多方面で活躍する人材を育てた教育者でもあった。

 その適塾は大阪大学医学部のルーツとなり、洪庵が晩年に頭取を務めた江戸の西洋医学研究所は、やがて東京大学医学部に発展。そのため、「日本近代医学の祖」と呼ばれるが、生涯を感染症の研究に費やした彼の死因は謎のまま。また、曾孫である医学者の緒方富雄氏が『緒方洪庵伝』に、「高ぶらず、へりくだった人」と書いたように、穏やかな人物だったようだが、そんな彼が激した瞬間があった――。

 洪庵は文化七年(1810)、足守(岡山市)藩士の三男に生まれ、一六歳で元服したあと、父が大坂の蔵屋敷留守居役となったことから、この地で蘭学を学び始めた。

 その後、江戸で別の蘭学者に師事する一方、長崎にも留学し、天保九年(1838)に二九歳で前述の適塾を開講。適塾は正式には洪庵の号にちなんで適々斎塾といい、適々は「自分の心に適するところを適として楽しむ」という意味だという。

 そんな洪庵は開塾と同時に妻の八重を娶り、彼を慕う塾生で次第に塾が手狭になったため、天保一四年(1843)に今の大阪大学適塾記念センター(大阪市中央区北浜)の町屋に移転した。ちなみに、この場所には当時の建物が今も残り、史跡と重要文化財に指定されている。

 そして、洪庵がまず医師として取り組んだのが天然痘。彼自身が八歳のときに、このウイルスに感染したことも影響しているのだろう。当時、すでに天然痘ウイルスのワクチン(牛痘)は開発されていたが、これは牛の痘瘡を“タネ”として人に植えることによって免疫をつけるもので、タネを人から人に植え継いで絶やさないようにしなければならなかったようだ。

 これは嘉永二年(1849)六月、オランダの外科医が日本に持ち込み、長崎の小児が初めて摂取し、その約半年後、そこから植え継がれたタネが大坂に入った。洪庵は、そのタネを管理して種痘(天然痘の予防接種)を確実に行うため、その年、大坂に除痘館を開設。だが、種痘は「悪説流布して、牛痘は益なきのみならず、かえって児体に害あり」(洪庵の『除痘館記録』)という噂が立ち、「種痘すると牛になる」などといった非科学的な話も出回ったという。

 それでも除痘館の活動は安政五年に政府公認となるなど、活動が本格化する中、日本にこの間、重大な事件が発生した。

 それがペリーの来航で、彼はこの翌年の嘉永七年(1854)に再来日し、三月三日に幕府と日米和親条約を締結。

 洪庵は直後の三月二五日、のちに暗殺される甥で吉備津神社(岡山市)の神官に、次のような手紙を出した。「じつにこの節、天下の一大事。二百余年の恩沢に浴しながら、うかうかと寝食を安んじおり候時節にはこれなく、身分相応の忠節は尽くしがたき事にこれあり候へども、蛆虫同然の身分何をいたし候ても、さらに省みる人もこれありまじく、ただ慷慨にて日を暮らし候事なり」

 洪庵は江戸に留学していた当時、按摩のバイトをしながら学費を稼いだ苦学生だったとされるだけに、寝食を安んじていたとは思わないが、黒船の来航と条約の締結は彼をして、そう思わせるくらいの出来事だったということだろう。

 洪庵はまた、蛆虫同然で省みる人もいないため、ただただ慷慨(悲憤)するしかないと嘆き、まるで尊王攘夷が同志をアジるときのような過激さも垣間見ることができる。

■感染症対策の“プロ”が肺結核で死亡は本当か

 しかし、洪庵はそのまま政治活動にのめり込まず、続いてコレラ対策に着手。除痘館の活動が政府公認となった安政五年夏、大坂でコレラ菌が猛威を振るったためだ。

 むろん、当時はペニシリンなど抗生物質治療薬がなかった時代。オランダ医師のポンぺ(幕府が招いた外国人医学教官)の治療法が、その門下生である松本良順(のちの三代目西洋医学研究所頭取、初代陸軍軍医総監)によって訳されていたものの、洪庵はそれだけでは不十分と考え、洋書からコレラの項を抽出して訳し、『虎狼痢(コロリ)治準』を刊行した。

 なお、洪庵が同書で、ポンぺの治療法が流伝して誤った治療法がまかり通っていると書いたところ、松本良順が猛抗議。その内容が妥当と判断すると、「松本君の責めなかりせば(中略)その過ちを不朽に流さんとせり」と反省する柔軟さもあったようだ。

 そんな洪庵は五三歳になった文久二年(1862)、幕府に召し出され、奥医師から将軍家侍医、さらに西洋医学研究所の二代目頭取に任じられた。

 だが、名誉な話にもかかわらず、身分に相応しい家来を雇ったり、将軍の前に出ても礼を失しない衣服や道具を新調して大金がかかり、「大貧乏人」になったと嘆いている。

 また、彼は幼少の頃より体が弱く、奥勤めの心労が堪えたのか、翌年六月一〇日、昼寝から目覚めて激しく喀血し、窒息死。

 塾生の福沢諭吉が「二、三日前に先生のところへ行ってちゃんと様子を知っているのに急病とは何事」(『福翁自伝』)と驚いたほどだ。

 死因は一般的に肺結核とされるが、結核菌は当然、感染力が強く、感染症対策に尽くした洪庵が、そうした状況で職務を遂行し続けたとは考えづらく、肺がん説もある。

 いずれにせよ、「国のため道のため」が口癖だった輝かしい功績と比較し、腑に落ちない最期と言える。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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