【ニッポン古代史の反乱】名門から反逆者「藤原広嗣の乱」! (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 日本の歴史上、最初の反乱とされる古墳時代の「磐井の乱」は、前号で触れたように九州で発生した。とはいえ、当事者の筑紫君磐井率いる地域国家ツクシが、同じくヤマトと衝突したという意味で、果たして本当に反乱と言えるかは微妙だ。

 その一方で、奈良時代に同じく九州で勃発した「藤原広嗣の乱」は、紛れもない反乱だったと言える。その首謀者である広嗣の曾祖父は「乙巳の変」を実行した藤原鎌足で、祖父が光明皇后(聖武天皇の后)の父である不比等。不比等は右大臣として律令制度を整えた国家の功労者で、その子供である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が協力して政権を担ったとされるものの、次男だけが孤立していた可能性がある。

 その根拠の一つが“疫病”だ。当時は現在の新型コロナウイルスと同様、飛沫や接触で感染する天然痘ウイルスが猛威を振るい、四人がいずれも命を落としたのだが、問題はその死亡時期。房前が天平九年(737)四月一七日である一方、残る三人は時期がずれ、同年七月一三日から八月五日までにかけて亡くなったことから互いに濃厚接触し、同時期に感染した可能性があるためだ。

 実際、歴史学者である木本好信氏は当時の政府について、「武智麻呂が主導し、それを宇合が積極的に支え、麻呂も協力」したものの、「房前は除外されていた」(『万葉時代の人びとと政争』)という。

 そして、武智麻呂政権を支えた宇合の長男が広嗣。父の宇合は若くして遣唐使の副使に任じられた一方、蝦夷の反乱の際に征夷持節大将軍として東北に遠征した武官で、その後も西海道節度使として、九州からの兵の確保や教練、武器や武具の調達と修理に当たった。彼は前述の通り天平九年八月五日に天然痘で死亡したが、広嗣は翌年四月に式部少輔に加え、「やまと(大和)のかみ(守)」と読む大養徳守に任じられた。これは中央政府の政務次官兼東京都知事のようなもので、それだけ将来を嘱望されていたと言える彼はなぜ、反乱を起こしたのか。

 その最大の理由が同年暮れ、大宰府の次官(少弐)として九州に赴任が言い渡されたこと。

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