中畑清と福田正博「プロ野球&サッカー」レジェンド対談 (2/5ページ)
茅ヶ崎市に引っ越してからだった。
福田「きっかけは、担任の先生に強く勧められたことでした。最初は野球とかけ持ちでしたが、先生のお兄さんが読売クラブの関係者で、ラモス瑠偉さんたちのいる練習場に連れて行ってくれたんです」
そんな福田氏だが、高校時代は「全国高校サッカー選手権」に一度も出場できず、大きな挫折感を味わっている。
福田「“進路選択が間違っていたのか?”と思い詰めましたね。その後も続く“成し遂げられなかった感”の最初となる体験でした」
だが、中央大学進学後は1年でレギュラーとなり、日本代表(B代表)に中山雅史選手らとともに選出。サッカー選手としての道を歩き始める。
プロ選手として大成功を収めた2人だが、けっして順風満帆な選手生活だったわけではない。
中畑「ジャイアンツに入団して最初の3年間は、芽が出なくて本当に苦しかった。将来像がとても描けない若手時代だったんだよ」
75年、ドラフト3位で巨人に入団した中畑氏。2軍生活は3年も続き、妻の仁美さんにこんな弱音も。
中畑「“俺、もうダメだ。荷物まとめて田舎に帰ろうかな”って言うと、“アンタ一人くらい、私が食わしていけるわよ!”って明るく言われたんだ。そのひと言で肚はらが決まったよ」
78年の日米野球で放った逆転ホームランが長嶋監督の目に留まり、79年10月、後に“地獄の伊東キャンプ”と呼ばれる球界初の秋季キャンプに招集された。
中畑「初日からバットスイング千本で、午後は守備練習で監督直々の千本ノックだった。日が落ちて薄闇の中、長嶋さんはボールに石灰を塗って高速ライナーを打ち込んでくる。指をはじけば骨折、頭に当たれば重傷……まさに命がけの真剣勝負だったんだ」
そんな約1か月の合宿特訓で得たものは大きかった。
中畑「体は日に日にパワーアップ。初日は1周しただけで倒れ込んだ200メートルの坂道ダッシュも、最終日には10周、楽々クリアできるようになった。