モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【六】

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モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【六】

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モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【五】

永らく清国の支配を受けて来た南モンゴル(現:中国内モンゴル自治区)の英雄バボージャブ(巴布扎布。1875~1916)は、民族独立の希望を賭けて日露戦争に参加。日本側の義勇兵「満洲義軍(まんしゅうぎぐん)」の主力メンバーとして活躍します。

その後、辛亥革命(しんがいかくめい。清国の滅亡)に乗じて北モンゴル(現:モンゴル国)に樹立された大モンゴル国(1911~1924年)に参加。

時は民国二1913年、南北モンゴルの統一実現に向けて、大モンゴル皇帝ボグド=ハーンは(中華民国に支配されている)南モンゴル解放の兵を起こすのでした……。

いざ南モンゴル解放へ!大いに活躍したバボージャブ将軍。だが……

さぁ、いよいよ待ちに待った南モンゴルへの出兵……の前に、バボージャブ将軍は首相のトグス・オチリン・ナムナンスレンに独立指揮権を要求しました。

「ここへ来る道中、軍務大臣(アルホア公ナスンアルビジフ)らの妨害に遭いました……モンゴル統一・民族解放の大義を前に、小さな功利にこだわるような者たちと足の引っ張り合いをしたくはありません」

これが認められてバボージャブ将軍は南東方面軍司令官を拝命。これに対抗するべく、アルホア公はその側近であるシャオパエンパタ(小巴彦哈達)も他方面の軍司令官に任じられましたが、干渉されなければ、もはや気にしません。

かくして南モンゴルを解放するべく進撃したバボージャブ軍は、中華民国軍と交戦。大陸各地から寄せ集められた民国軍兵士に対して、勝手知ったる南モンゴルの原野を縦横無尽に駆け巡り、数々の勝利を収めたそうですが、ここで「待った」がかかります。

大モンゴル国(バボージャブら)による南モンゴル解放(進攻)とロシアからの圧力図。

民国二1913年11月、中露共同声明が発せられたことに伴い、ロシアが大モンゴル国に対して「中華民国領(=南モンゴル)から撤兵」するよう圧力をかけたのです。

実のところ、大モンゴル国はロシアの後ろ盾によってギリギリ独立を保って(と言うか、許されている)おり、ロシアに逆らおうものなら、たちまち滅ぼされてしまう状態でした。

要するに、偉大なるチンギス=ハーンの末裔である皇帝ボグド=ハーンは「ロシアの傀儡(かいらい。操り人形)」に過ぎず、大モンゴル国は大国ロシアと中華民国との緩衝地帯(クッション)に過ぎなかったのです。

この中露共同声明によって大モンゴル国に対するロシアの宗主権(=ロシア>モンゴルの主従関係)が正式に認められた以上、傀儡ボグド=ハーンは南モンゴル解放の手立てを失ってしまいました。

「おのれ……力なき民族は常に大国の都合で振り回されるばかり……しかし、ただ大人しく諦めはせんぞ!」

バボージャブ将軍は勅命によって仕方なく大モンゴル国領内まで引き返したものの、あくまで南モンゴル解放の姿勢は崩さず、南モンゴルとの国境付近に居座り続けたのでした。

絶望のキャフタ協定……そして賊軍に

「バボージャブが目障りだ!一刻も早く首都フレーへ戻らせろ!」

「……との事だ。一刻も早く処置するように」

中華民国からのクレーム、そして宗主国・ロシアからの命令を受けたボグド=ハーンはバボージャブ将軍に「東南辺境モンゴル人鎮撫官兵総管大臣ショドルゴ・バートル世襲鎮国公」という称号を授けますが、南モンゴル解放の執念に燃えるバボージャブ将軍が帰還することはありませんでした。

そうして1年……2年と南モンゴルを睨みながら、陰でゲリラ戦を展開していたバボージャブ将軍の元へ、絶望的な悲報がもたらされます。

時は民国四1915年、キャフタ(現:ロシア連邦ブリヤート共和国。シベリア南部)で開催されたロシアと中華民国、そして大モンゴル国の三国会談の結果、大モンゴル国は中華民国の宗主権も承認させられることが決定しました(キャフタ協定)。

大モンゴル国は「ロシアと中華民国の双方に従属」、つまり「南モンゴルを中華民国の領土と認める=領有権を放棄する」ことを表明してしまったのです。

「そんな……嘘だ!断じて認めん!認めんぞ!」

これまで身命を惜しまず戦い続けたのは、一体何のためだったのか……絶望のどん底に突き落とされたバボージャブ将軍に追い撃ちをかけるように、ロシアと中華民国の命令を受けたボグド=ハーンから「バボージャブ追討」の勅命が下されました。

「……陛下、バボージャブ討伐の勅命を……」苦渋の決断を下すボグド=ハーン(イメージ)。

大モンゴル国のため、一点の私欲もなく戦い続けたバボージャブ将軍に対してあんまりな仕打ち……とは言っても、ロシアと中華民国の意向に逆らえば、ボグド=ハーンが潰されてしまいます。

「おのれ腰抜けめ……仕えるべき主君を間違えたか……しかし、たとえ腐っても大ハーンと干戈(かんか)を交えるのは、モンゴル民族としてあまりに忍びない……」

賊将の烙印を押されたバボージャブは、ボグド=ハーンの権力が及ばない大モンゴル国の外へ越境して南モンゴル東部へ進攻。拠点を確保するべく暴れ回ったものの、衰運のバボージャブを見限った兵士たちが一人減り二人脱走し、ジリ貧は否めません。

このままでは、遠からず手詰まりとなる……バボージャブはかつて共に戦った日本に支援を求めました。

日本からの支援で「勤王師扶国軍」総帥に

「……との事だ。どうする?」

バボージャブから必死の要請が届いた関東都督府(日本陸軍。現:遼寧省遼陽市)では、支援の諾否について検討されていました。

「モンゴルの英雄をむざむざ見捨てるのは忍びない……本件につき、自分にお任せ願えませんか」

名乗り出たのは陸軍通訳官の川島浪速(かわしま なにわ)。以前に失敗した第一次満蒙独立運動(宣統三1911年)で、バボージャブと親交を深めていました。

「良かろう……」

バボージャブへの支援が承認された川島は、さっそく大倉財閥から軍資金を調達、また軍部からは武器弾薬を調達。いわゆる大陸浪人や予備役軍人を掻き集めて、急ぎ派遣します。とは言っても、別にモンゴル民族独立の理念に共感したとか、単なる友情ではありません。

欧米列強から「Strong Man」と評された剛腕・袁世凱。Wikipediaより。

当時の日本は第一次世界大戦(1914年~1918年)の一環として大陸に駐屯していたドイツに宣戦布告。中華民国の大総統・袁世凱(えん せいがい)に対して圧力をかけて大陸沿岸部の利権を確保する目的がありました。

しかし肚の内はともかく、バボージャブにとっては旱天の慈雨にも等しい支援。これを受けて勢いを取り戻した軍勢は3,000余騎まで膨れ上がり、「勤王師扶国軍(きんのうすいふこくぐん。大ハーンに忠義を尽くし、大モンゴル国を助ける軍)」を称します。

「我らが主君ボグド=ハーンは、その聖なるがゆえに俗世の力を持たれず、ロシアと中華民国に臣従の屈辱を強いられている……なれば我々がハーンのお力となり、おわすべき聖座へ奉戴しようではないか!」

かくて総裁となったバボージャブは、大モンゴル国の独立を取り戻すべく、最後まで戦う決意を訴えるのでした。

【続く】

※参考文献:
楊海英『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』文藝春秋、2014年11月
波多野勝『満蒙独立運動』PHP研究所、2001年2月
渡辺竜策『馬賊-日中戦争史の側面』中央公論新社、1964年4月

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