田中角栄「怒涛の戦後史」(24)元首相・鈴木善幸

週刊実話

 リーダーとしての資質を問われる一つに、単なるイエスマンではない相当の仕事をこなせる忠臣を、どれだけ抱えているかがある。こうした人物を多く抱えていることにより、リーダーの地位は安泰となる。これは政治の世界にかかわらず、ビジネスをはじめとする一般社会のあらゆる組織で共通する、「リーダー論」と言えるのである。

 そうした強力なリーダーと忠臣との関係を、田中角栄と鈴木善幸に見ることができる。鈴木はのちに、田中に担がれて首相にはなったが、トップリーダーの器としてはいささか物足りなさを露呈してしまった。田中も「こんなはずではなかった」との読み違いをしたようだが、一方で鈴木は司としての仕事ぶりで、まったく水漏れのなかった人物であった。

 まず、田中と鈴木の出会いに触れておこう。二人は昭和22(1947)年4月の総選挙で初当選を飾った同期である。田中は保守系の民主党から出馬して当選、その後、吉田茂が総裁だった民主自由党に合流し、さらには自由党、自民党に所属したが、鈴木はいささか“毛色”の違った道を歩んだものだった

 鈴木は岩手県・三陸の山田町出身で、尋常高等小学校を卒業すると、県立の宮古水産学校に入っている。当時のあだ名は「秀才」で、頭の回転もよく、勉強もした。卒業後は、農林省水産講習所(現・東京海洋大学)の養殖科に入ったが、ここでの成績も抜群であった。卒業後は「漁協運動家」を志して財団法人・日本水産会に入ったが、その勤勉さで水産会の会長にかわいがられ、全国漁業組合連合会入りをした。ここで、旧態の「漁協」を改革する必要性に目覚め、社会党から推されて衆院選に出馬、当選を飾ったのだった。

 しかし、当時の社会党は左右両派に分かれての主導権争いが活発で、鈴木はこれに嫌気がさして民主自由党入りした。2回目の昭和24年1月の総選挙では、「革新」から「保守」という、まさにコペルニクス的“転身”のうえ、こちらでの当選を果たしたということだった。田中とは、この民主自由党で席を同じくしたことで、以後、互いにその仕事ぶりを認め合うようになったのである。

 そうした中での昭和29年、鈴木は吉田茂率いる自由党時代、時の幹事長・池田勇人が立ち上げた派閥「宏池会」に入った。ここには田中がとりわけ親しかった大平正芳が所属しており、この大平を介するかたちで、田中と鈴木の間にも信頼感が醸成されていった。

 その後、田中が郵政大臣、大蔵大臣、自民党幹事長と実力者への階段を駆けのぼったのに対し、鈴木もまた郵政大臣、官房長官、農林大臣と着実に要職をこなしてきた。特筆すべきは、その間、自民党総務会長をじつに通算10期もやったことであった。

 党三役の一角である総務会長は、党最高の政策決定機関で、総務会の議論は賛否両論が噴出、白熱して収拾困難となることも少なくない。その会長ポストに求められるのは一にも二にも「調整力」で、これを10期もこなしたのだから、田中もこのあたりの“鈴木評価”は的確と言えたのだった。

 その後、田中が首相の座に就く頃には、時に大平派の「宏池会」所属ながら、鈴木には「現住所・大平派、本籍・田中派」の陰口も出ていたのだった。それほど、田中との関係はツーカーの仲だったのである。

★「早く芝居の幕を開けろ」

 田中が、首相在職中に急死した大平の後継に担いだのが、この鈴木であった。田中とすれば、ロッキード裁判を抱えながらも、鈴木を担ぐことでなお影響力維持に腐心したということだったが、総務会長10期の「調整力」と、首相としての政権運営は、いささか異なるものであった。

 まず、鈴木は政権発足に際し、一般には知名度が低かった。「ゼンコー、フー?(善幸とは何者?)」との声も出て、結局、2年半の政権で内政、外交とも見るべき実績は残せなかった。とくに、「政治生命を懸ける」として掲げた行政改革でまったく成果が上げられず、ついには“後見人”としての田中も、鈴木に引導を渡さざるを得なかった。メディアからは、「暗愚の宰相」との声まで出たのである。

 田中は彼一流の言い回しで、こう迫ったのだった。
「いつまでも芝居の幕を開けないと、客は帰ってしまうぞ」

 早く行革の成果を出さないと、国民は鈴木政権に、早晩、ダメ出しをしかねないという“最後通牒”である。この田中の言葉をもって、鈴木は、さすがに退陣を決断した。プライドもあるが、政権の限界を知ったということだった。鈴木は昭和57年11月、内閣総辞職に踏み切り、田中はそのあと釜に、なおも自らの影響力温存を図るため、気脈の合った中曽根康弘を担いだのである。

 田中は長い政治生活の中で、人を見誤るということがまずなかった。部下には適材適所のポストを与え、それぞれが皆、それなりの結果も出していた。唯一の“メガネ違い”が、この鈴木と言えたのである。

 鈴木が首相としての実績を残せなかったのは、とりわけ大蔵、外務などの重要省庁との太いパイプを欠いたことが大きかった。官僚が動かなかったのである。鈴木は自民党総裁に選ばれた際のあいさつで、次のように言ったくらいだから、自らの分際は初めからわきまえていたようだ。

「もとより、私は総裁としての力量に欠けることを十分に自覚している」

 官僚使いの達人だった田中は、珍しく鈴木の力量を読み違ったということだった。田中としては、「弘法も筆の誤り」と言いたかったのではなかったか。
(本文中敬称略/次回は元通商産業省事務次官・小長啓一)

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【著者】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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