多岐川裕美、プロフィールから初主演を抹消/女優「初脱ぎ・初ベッド」秘話(終) (2/2ページ)
あそこに何人いようが平気だったと思います」とのことだった。
本人の心意気とは裏腹に、所属事務所の社長が失踪したことで「借金返済」のために脱いだと伝わってしまったのは、忸怩たる思いであったようだ。
08年に公開された「おくりびと」(松竹)は、アカデミー賞外国語映画賞に輝いたことは記憶に新しい。滝田洋二郎監督による実に54年ぶりの快挙を日本中が喜んだが、ただひとり、いとうまい子だけは消えない遺恨を抱えていた。
まだ「伊藤麻衣子」の名義だった87年、滝田監督の「愛しのハーフ・ムーン」(日活)に主演したのは23歳の時だ。
ここでいとうは「前張りをつけての脱ぎ撮影」があることを、現場で初めて知らされた。この当時のいとうは清純アイドルだったゆえ激しく抵抗するも、聞き入れられない。ギリギリの“セミ”で強行した撮影は、いとうの公式プロフィールからすっぽり抜けている。
多岐川裕美のデビュー作は、本誌に連載されたマンガが原作の「聖獣学園」(74年、東映)である。名物監督である鈴木則文にスカウトされ、劇中ではバラの枝で胸を巻かれるようなハードなシーンも見せた。
ただし、多岐川はこれ1作のみで脱ぎを封印。さらに80年には「監督にダマされて」脱ぎ姿となったと告白し、鈴木監督が「ダマされたとは何事だ。告訴する!」と反論する騒動になった。もっとも、抜け目がなかったのは東映で、騒動の渦中に「聖獣学園」をリバイバル上映し、ヒットさせるという大胆さであった。