長嶋、野村、落合…こんなにいる!「甲子園に行けなかった」スーパースター
新型コロナウイルスの影響で、全国高等学校野球選手権大会、すなわち夏の甲子園の中止が決まった。
「目標を失った球児たちには、かける言葉もありません。しかし、プロ野球の世界には、甲子園に出場せずとも大成した、偉大なプレーヤーがひしめいています。甲子園だけが野球ではありません。気持ちを切り替えて、精進してもらうことを願うばかりです」(プロ野球関係者)
自身も甲子園に出ることができなかった野球解説者の江本孟紀氏が解説する。
「私の場合、秋季大会で優勝し、センバツに出られる資格を得たんですが、大会直前に部員の不祥事が発覚し、出場停止。野球部はそのまま解散となってしまいました。夏の大会の予選にも出られないまま、高校生活が終わってしまいました。その後、大学、社会人を経てプロの世界に入りましたが、高校野球はあくまでアマチュアの大会。プロに入ってから本当の勝負が始まるんです」
そんな意味で甲子園未出場の偉大な選手の筆頭格は、長嶋茂雄だろう。1953年8月1日、埼玉県営大宮球場で千葉県代表の佐倉一高と埼玉県代表の熊谷高校が甲子園をかけて戦った。
「熊谷3点リードで迎えた6回、佐倉一高の4番・長嶋茂雄が、熊谷高校のエース・福島郁夫の投じた2球目のストレートをセンターバックスクリーンのど真ん中に叩き込みました。しかし、佐倉一高はこの1点にとどまり、1 -4で敗北。ミスターの甲子園の夢は消えました」(ベテラン記者)
打たれた福島投手は、次のように述懐している。
「3打席目のホームランだけでなく、4打席目の大飛球もすごかった。センターがバックスクリーンの1メートル位手前を守っていたが、それでもジャンプしてようやくキャッチできた。すごいヤツが出てきたと思った」
このホームランを長嶋の父・利さんが現場で目撃。翌年、他界した利さんにとっては、直接見た長嶋の唯一ホームランとなった。
そして、選手としても監督しても球史に名を刻んだ野村克也も甲子園未経験組。
「野村の在籍した京都府立峰山高校は弱小中の弱小チーム。1年時は捕手として、2人の投手をリードしたものの、1回戦で立命館神山に1 -12でコールド負け。2年時は2回戦で洛北に1-8で敗退。3年時は3回戦まで進みましたが、洛陽に0 -6で8回日没コールドで敗れ、甲子園など夢のまた夢という状況でした」(スポーツ紙デスク)
しかし、高校卒業後、南海に契約金ゼロのテスト生として入団してから、我らがノムさんの躍進が始まる。
「ブルペン捕手から始まり、努力に努力を重ねてレギュラーの地位を勝ち取り、三冠王を獲得するまでに成長。名将の名をほしいままにしました」(前同)
この2月、天寿を全うしたが、球界の宝が喪失したことで、日本中が落胆したことは記憶に新しい。
■張本、落合…甲子園未出場の偉大な選手
プロ野球史上唯一の3000本安打の男、張本勲も甲子園には縁がなかった。
「野球で身を立てようと広島から大阪の浪華商業に進学したのに、1年生のときは出場停止、2年時は出場辞退、3年時は大阪大会で優勝しましたが、甲子園大会直前に暴力事件で休部と、結局、一度も甲子園の土を踏むことはなかったんです」(スポーツ紙記者)
だが張本は見事、プロ入りする。その経緯はこうだ。
「浪商の中島監督と巨人の水原茂監督は、シベリア抑留時代に捕虜収容所で一緒になった仲。張本の打撃力に惚れた水原さんは張本を中退させて巨人にスカウトしようとまでした。家族の“高校卒業”の希望から、その計画は頓挫しましたが、その実力が買われ、高校卒業後、東映入り。水原さんもその後、東映の監督に就任し、張本の打撃に助けられています」(前同)
日本の敗戦がなければ、3000本安打男は誕生しなかったかもしれない。
日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した落合博満も、甲子園の土を踏めなかった。
「プロ入りするまでの彼の野球人生は、まさに波乱万丈。秋田工業の3年間、野球部への入退部を7回も繰り返したという伝説があります。落合は新聞に県大会の組み合わせ表が掲載されるまで、練習に出なかったそうです」(ベテラン記者)
3年生の夏は1回戦で敗退したが、東洋大にスポーツ推薦で入学した。「しかし、ここでも運動部独特の上下関係に悩んで早々に退部。一時はプロボウラーを本気で目指してボウリング場に通い詰めていましたが、社会人野球の東芝府中から声がかかり野球界に復帰しました」(前同)
社会人野球で実績を積み、78年のドラフトでロッテに3位指名されるが、こんな逸話がある。
「当時、実は巨人も落合を狙っていたんです。ドラフト前日に起きた“江川空白の1日事件”で、巨人はドラフトをボイコット。落合の巨人入りは幻に終わりましたが、巨人入りしていたら、球史が大きく変わったかもしれません」(同)