16歳とは思えない風格!悲劇のイケメン貴公子・平敦盛の美しすぎる最期【下】

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16歳とは思えない風格!悲劇のイケメン貴公子・平敦盛の美しすぎる最期【下】

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16歳とは思えない風格!悲劇のイケメン貴公子・平敦盛の美しすぎる最期【上】

時は平安、源平合戦のハイライト「一ノ谷の合戦」で初陣を果たした平家の貴公子・平敦盛(たいらの あつもり)でしたが、味方は敗走し、自身は敵方の熊谷次郎直実(くまがいの じろうなおざね)に取り押さえられてしまいます。

しかし、直実は少年のあどけなさを残した敦盛の美貌に、先ほど負傷した熊谷小次郎直家(こじろう なおいえ)の姿を重ねます。

父親の一人として、他人様の息子を奪う(殺す)など出来ない……何とかして敦盛を助命したいと直実は、殺すべきか殺さざるべきか、葛藤に苦悶するのでした。

助命したい直実と、敦盛の毅然たる態度

「……いかがした。早よう首を獲らぬか。それとも人を殺(あや)むるが恐ろしいか……勇悍(ゆうかん)に聞こえし坂東武者も、存外に憶病じゃのう」

覚悟を決めた敦盛(イメージ)。

もはや覚悟を決め、胆の据わった敦盛は、ためらう直実をけしかけますが、直実はそれには答えず、

「殺すには惜しい、名のある方とお見受けした……この場はお助け申すゆえ、お名前を」

しかし、敦盛は「人の名を問うなら、まず己より名乗れ」と答えません。そこで直実は「武蔵国(現:埼玉県)の住人、熊谷次郎直実」と名乗ったところ、

「……そなたの如き荒夷(あらゑびす。野蛮人)に名乗るような安い名は持っておらぬ……我が首級を人に見せれば、知っておる者が少なからずおろうよ」

と、鼻で嗤(わら)います。つまり「私の顔を見知らぬような下賤の者など相手にしない」というメッセージに外ならず、どうあっても命乞いをする気はないようですが、どうしても敦盛の助命を諦め切れない直実は、なおも食い下がります。

「お若いのに、何という立派なお振舞い……しかしながら、あなたお一人を討とうが討つまいが、もはや戦の趨勢には何の変化もございませぬ……実はそれがし、貴殿と同年代の倅が先ほど負傷しただけでも大変心を痛めているのに、あなたの討死を知ったら、お父上はどれほど嘆かれましょう……ですから、どうしてもお助けしたいのです」

すると向こうから、友軍の土肥(どい)や梶原(かじわら)の軍勢が五十騎ばかりでやって来ました。

泣きながら敦盛の首を……

「おい……熊谷の、大丈夫か!加勢致すぞ!」

一見すると心から直実の安否を気遣い、必要ならばすぐにも助けようとしているようですが、こうして聞こえよがしに声をかけておくことで、後日の論功行賞で

「あの時、それがしも直実に加勢したからこそ敵将(敦盛)を討てたのだ」

と主張し、あわよくば恩賞の何割かでもシェアしよう……そんな狡猾な武士も、決して珍しくはありませんでした。

※もちろん現地でも「それがしのお陰で敵将に勝てたんだよな!……なぁオイ、そうだろう?」と脅しをかけて言質をとっておきます。拒絶すれば数を恃みに殺してしまい、手柄を横取りする事もあったようです(何せ戦場ですから、殺した仲間は「名誉の討死」として処理すれば事足ります)。

土肥や梶原の軍勢に対して、直実は(直家を後方に退がらせたので)たった一人……ここで敦盛を逃したところで、彼らに殺されるのがオチ。下手をすれば、自分まで「平家一門と内通」した嫌疑をかけられかねません。

「……御免!」

直実は泣きながら敦盛の首を掻き切ると、哀しみを暴発させたのか、あるいは友軍に対してアピールするかのように咆哮を上げながら、敦盛の首級を天高く掲げたのでした。

(あぁ……武士ほど辛い生き方はない……親子の情愛を引き裂いてまで、いったい何が得られると言うのか……あまりにも虚しい……)

そんな思いが、後に直実を出家の道へ進ませることとなるのですが、それはまた別の話。

エピローグ

……かくして敦盛を討ち取った直実は、その首級を鎧直垂(よろいひたたれ。鎧の下に着る装束)に包もうとしたところ、腰に差してある錦の袋に気づきました。

「はて……?」

入っていたのは青葉(『平家物語』では小枝-さえだ)の笛。教養に乏しい直実ですが、これが名物であることを直感。今朝がた、平家軍の砦から聞こえた雅やかな音曲は、きっとこれらによって奏でられていたかと思うと、悲しみもいっそう増すばかり。

「……当時御方(おんかた。みかた)に東国の勢何万騎かあるらめども、軍(いくさ)の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈(じょうろう)はなほもやさしかりけり」

【意訳】(前略)我ら東国の軍勢は何万騎もいたが、合戦の陣中に笛を持ってくるような者がいる筈もない。やんごとなき方はどんな状況にあっても雅やかなことよ……

そして戦後の首実検で、敦盛の首級を総大将である源義経(みなもとの よしつね)に見せたところ、彼こそ名高き敦盛であったと知ってその死を惜しみ、涙せぬ者はいなかったそうです。

その後、直実は法然(ほうねん。浄土宗の祖)上人の勧めによって建久元1190年に高野山で敦盛の七回忌法要を執り行い、青葉の笛は須磨寺(すまでら。現:兵庫県神戸市)に奉納され、今も大切に保管されています。

月岡耕魚「能楽絵図 敦盛」

この源平合戦におけるハイライトは後世の創作者たちを大いに刺激し、能・幸若舞「敦盛」や文楽・歌舞伎「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」などの元ネタとなりました。

享年16歳(一説には17歳)という短く、悲劇の生涯ではありますが、その中には平家の貴公子として、また坂東武者をして感服せしめる、大将として恥じない品性と風格があり、その生き方に今なお多くの人々が惹かれ続けています。

【完】

※参考文献:
杉本圭三郎『平家物語(九)』講談社学術文庫、1988年
菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』角川選書、2005年
石川透『源平盛衰記絵本をよむ 源氏と平家合戦の物語』三弥井書店、2013年

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