貴乃花「鬼の形相」上手投げ! 大相撲「伝説の一番」舞台裏

日刊大衆

貴乃花「鬼の形相」上手投げ! 大相撲「伝説の一番」舞台裏

 開催中止となった大相撲五月場所。そこで本誌は、歴史に残る名勝負と、その知られざる裏側に迫った!(取材・構成/武田葉月)

 新型コロナ感染拡大の影響で、当初5月24日に始まるはずの大相撲夏場所の開催は中止に。7月19日に名古屋場所を国技館で開催することで現在、調整しており、それまで相撲が見られないのは、ファンならずとも寂しいところ。そこで、これまでの夏場所の名シーンを振り返りつつ、大相撲の魅力を再発見してみたい。

 夏場所で真っ先に思い出すのが、1991年夏場所初日の貴花田-千代の富士戦だ。大関・貴ノ花の次男で当時18歳の貴花田と、35歳の大横綱との初対戦に、多くの国民の目がくぎづけとなった。しかし、勝負は意外なほど、あっけなくついた。貴花田が頭を低くして千代の富士の懐に飛び込むと、右を差して左からも強力なおっつけを見せる。そのまま土俵際まで追い込んで、貴花田が勝利したのだ。「土俵を割ったときの千代の富士の表情が印象的でしたね。“クソーッ!”じゃなくて、“やられたな……”という苦笑いを見せたんです」(スポーツ紙記者)

 かつて、父の貴ノ花が新鋭だった千代の富士に敗れて、引き際を悟ったように、このとき、千代の富士の脳裏にも「引退」の二文字がよぎったという。3日目、貴花田と同じ藤島部屋の貴闘力に敗れた千代の富士は、ついに引退を決意した。「体力の限界! 気力もなくなり、引退を決意いたしました」と、涙ながらに会見で語ったことも忘れられない。

 それから10年。大横綱となり“貴乃花時代”を築いていた貴乃花は、ケガに苦しめられ、01年初場所で2年ぶりの優勝を飾った。こうして臨んだ夏場所は、初日から13連勝。ところが、14日目の大関・武双山に巻き落としで敗れ、左ヒザを負傷してしまう。千秋楽は休場か、と危ぶまれる中、貴乃花は強行出場する。

 結びの一番、武蔵丸との対戦は、武蔵丸が右に変わっての突き落としで勝ち、2敗で並んだ2人は優勝決定戦に進んだ。「あのときの貴乃花は、誰が見ても相撲を取れる状態ではなかった。決定戦に出てきたときは、館内のお客さんも息を飲んで見つめていましたね」(専門誌記者)

 そんな状況の中、奇跡は起こった。貴乃花は左ノド輪から左上手を取り、武蔵丸が左上手を取りにいくところを気力を振り絞って、上手投げを決めたのだ。

 勝利の瞬間、貴乃花が土俵上で見せた気迫の表情は、「鬼の形相」と称された。表彰式では、小泉純一郎首相(当時)が、「痛みをこらえて、よく頑張った! 感動した‼」と貴乃花の奮闘を称えたが、これが貴乃花最後の優勝となってしまうとは当時、誰も思わなかっただろう。

■旭天鵬「涙の初優勝」

 気迫が呼び込んだ「涙の初優勝」と言えば、12年夏場所、平幕・旭天鵬の優勝も思い出深い。5日目を終えて2勝3敗だったが、6日目から10連勝。当の友綱親方は、こう振り返る。「13日目くらいから、激励の電話やメールがものすごくて……。もともとは優勝を狙っていたわけじゃなかったけれど、“せっかくのチャンスだから、1回は優勝してみたいな”という気持ちに変わったんです」

 千秋楽、優勝の行方は、同じく3敗の平幕・栃煌山との決定戦に持ち込まれた。「ここまできたんだから、出せるものは全部出そう!と、リラックスして相撲を取れた」と語る旭天鵬。その言葉通り、土俵際の叩き込みが決まり、優勝を決める。このとき、37歳4か月。旭天鵬のみならず、花道で見守った付け人や後輩たちも涙を流して優勝を祝福していた姿は印象的だった。

 昭和40年代(1965~75年)には、多くの個性派力士が存在した。のちに父(師匠の先代・増位山)と同じく、大関の地位まで昇り詰めた増位山も、その一人である。競泳で鍛えた抜群の足腰で、内掛けなど多彩な技でファンを沸かせたが、1974年夏場所5日目の魁傑戦は、大熱戦となった。お互い左四つから、次第に右四つ。増位山が極端な右半身になると、両者は警戒し合って動かない。4分秒が経過し、この場所初の水入り。水入り後は、魁傑のすそ払いに増位山がのけぞって倒れそうになるも、体勢を立て直し、下手投げで増位山の勝利となった。

「魁傑さんとは、入門が2場所違いのほぼ同期生。若いときから、お互いの手の内を知っているから、下手に攻められない。警戒しているうちに、合計5分の相撲になってしまった。相撲人生で2回しかない水入りの相撲の中の一番です」と語るのは本人、増位山太志郎。

 増位山が他に忘れられないと語るのが、75年夏場所8日目、天覧相撲の麒麟児-富士櫻の取組だ。「突っ張り相撲の2人は50発くらい突っ張り合って、最後は、富士櫻の引きに乗じて麒麟児が勝った。僕ら四つ相撲の力士からすれば、“よくやるなぁ”って感じ(笑)。もうお互い、意地の張り合いという感じで、見ているほうは面白いよね。陛下も大変お喜びになったそうですね」(前同)

 また、71年夏場所5日目の貴ノ花-大鵬戦も、世代交代の一番として語り継がれている。21歳の新鋭・貴ノ花が30歳の大横綱に挑戦。貴ノ花のぶちかまし、大鵬の左からのかち上げで当たり合った後、左からいなす貴ノ花。体勢を崩す大鵬を100キロと細い体をぶつけるように寄り切った貴ノ花が勝利した。大鵬最後の一番は、次世代を担う若者へバトンを渡す形となった。

■北尾と小錦の熱戦

 昭和60年代(1985~95年)になると、大型力士の時代に移行する。199センチ、153キロの北尾と186センチ、233キロの小錦の対戦は、時代を象徴するような重量戦である。天覧相撲の1986年8日目、互いに全勝で臨んだ一番は、突っ張り合いの末、北尾の上手投げが決まったかと思われたが、軍配は小錦。物言いの末に取り直しとなり、今度は押し合いから、北尾が両上手を引きつけての寄り身。土俵際でこらえた小錦だったが、そこに北尾の体がのしかかり、さば折りで北尾の勝利。

「この相撲で右膝をケガした小錦は翌日から休場。相撲人生に大きく陰を落とす大ケガとなってしまいました」(相撲誌記者)

 転じて、平成の「長い相撲」と言えば、01年夏場所6日目の琴光喜-武双山戦だ。左を差した大関・武双山のすくい投げを警戒した琴光喜は、右上手を取って相手の動きを探っているうちに、5分が経過。水入りとなったが、再開後も両者ともほとんど動きがなく、9分16秒で再び、戦闘は休止。2番後に取り直しとなり、「三度目の正直」は琴光喜が右下手投げを連発した後、寄り切りで勝利した。

「何度も勝負を仕掛けようとしましたが、自分の度胸が足りなかった……」と、計9分45秒の相撲を反省気味に振り返るのは、琴光喜である。

 06年夏場所千秋楽の優勝決定戦、白鵬-雅山は新しい時代の到来を告げた一番だ。新大関の白鵬と大関経験者の雅山は、千秋楽の本割りを終えて、ともに14勝1敗。互いに初優勝をかけた決定戦は、元大関の意地が炸裂し、白鵬の再三の攻めをしのぐ大相撲となった。右四つ十分の白鵬が上手投げで崩しながら寄り、最後は力尽きた雅山が土俵下に崩れ落ちた。

「まさに、白鵬時代の始まりだったね。雅山に1敗をつけたのは、実はオレ。今でも、“あのとき、旭天鵬に負けていなければ優勝していた”と、雅山にイヤミを言われているよ(笑)」とは、友綱親方の弁だ。

■「ヒール横綱」朝青龍

 さて、平成時代をかき回した「ヒール横綱」と言えば、朝青龍だ。03年春場所、横綱に昇進した朝青龍は04年に入ると絶好調。2場所連続全勝優勝で35連勝とし、夏場所6日目は全勝同士、平幕・北勝力戦が組まれた。この場所、3大関を撃破して波に乗る北勝力の勢いは止まらなかった。得意のノド輪が冴えまくる北勝力の腕を外しきれず、朝青龍はドスンと土俵に仰向けにひっくり返り、連勝がストップしてしまう。

 千秋楽、2敗の両者は、優勝決定戦で再び対戦するのだが……。「朝青龍の(11日目の)2敗目もオレ。いわば、朝青龍の優勝を邪魔する白星だったから、このとき、オレはモンゴル中の人に責められたんだ。“先輩なら、朝青龍に勝たせてやれよ”って。ヒドイよね~(笑)」(友綱親方)

 この優勝で3連覇を果たした朝青龍は、優勝回数を25回まで重ねていく。

 このように、さまざまな名場面があった夏場所。本場所が4か月間開催されないことで、力士のモチベーションの低下が心配されるところだが……。「私の親父の現役時代なんか、1年に2場所だけですからね(現在は年に6場所)。力士の体というものは、一朝一夕で作り上げたものじゃない。基礎がしっかりしているので、“本場所がないから、体力的に衰える”なんてことはないですよ。逆に、力士諸君には、今はケガを治すいいチャンスだと考えてもらいたい。このチャンスを自分のモノにした力士が勝っていく。そういう角度で見れば、大相撲も違った意味で面白いんじゃないかな?」(増位山)

 手に汗握る名勝負を再び見るために、次の場所が開催されることを祈ろう。

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