「正長の土一揆」が全国に波及も…暴動ブーム終焉の裏に応仁の乱! (3/3ページ)
だが、これだけ勢いのあった土一揆も、不思議なことに応仁の乱(1467~1477年)が起きると、沈静化。さしもの民衆パワーも戦乱には勝つことができず、その犠牲となるしかなかったのか。
実は一揆の主戦力となった民衆はどうやら、応仁の乱の発生とともに歴史に登場する「足軽」に姿を変えたようだ。当時、一条兼良という公卿が書いた『樵談治要』という政治指南書に、「このたび、はじめて出で来たれる足がるは超越したる悪党なり」とある。
彼は続けて足軽の悪党ぶりを記し、洛中洛外の至るところで打ち壊しや放火、略奪行為を繰り返したというように、一揆の当事者となった民衆の一部は農村や都市を飛び出し、あぶれ者(いわゆる浮浪の徒)となったのだ。
実際にたとえば、京の八条に馬切衛門太郎というあぶれ者がいた。馬切は渾名だろう。「馬を切る」ほどに暴れ者だった彼は八条の村を追い出され、応仁の乱が勃発してしばらく経った頃、足軽大将になっている。
つまり、土一揆の蜂起はある意味、のちに訪れる戦乱の時代の序曲だったと言える。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。