「正長の土一揆」が全国に波及も…暴動ブーム終焉の裏に応仁の乱! (2/3ページ)
これは『続史愚抄』という史料に「諸家被官人、土一揆へ与くみすべからざるの由、下知すべくの由相触れる事」とあるように当時、幕府軍の兵に「一揆に加わるべからず」という触書が出されていたにもかかわらず、彼らが騒ぎを鎮圧するどころか、むしろ、これに荷担したことを示している。
こうした中、一一月には一揆勢が東寺に陣取って下京付近に出没するようになり、寺院を占領して要害となし、ここをいわば砦代わりに、酒屋や土倉を襲い始めた。
さらに、奈良でも馬借や土民が蜂起し、般若寺(奈良市)を占拠して、かがり火を焚き、大和国の守護権を持つ興福寺の僧兵や傘下の国衆の軍勢と戦うと、続いて南の長谷寺(桜井市)付近でも一揆が発生。興福寺が相次ぐ一揆の発生に根負けして大和一国に徳政令を発布すると、神戸四郷(奈良市柳生町)の民衆は柳生街道沿いにあった地蔵尊の石に、「正長元年より以前の負目(借金)はあるべからざる」と銘文を刻んだ。事実上の勝利宣言である。
その後、正長の土一揆の影響は近江、山城、大和から他の地域に波及。春日大社の関連史料によると、「伊賀・伊勢・宇陀・吉野・紀国・泉国・河内」(一部、大和国を含む)でも民衆が蜂起し、「日本国残りなく徳政」を求めるようになったという。
当然、一度、火が点いた民衆のパワーはとどまることを知らず、徳政一揆は以降、ある種のブームとなった。
■民衆は応仁の乱のあと“足軽”に姿を変えた
永享元年(1429)の播磨、丹波、伊勢、大和宇陀、摂津多田に続き、同四年には大和で年貢免除を求める動きが表面化し、翌年には近江の馬借がまたしても蜂起。
さらに嘉吉元年(1441)八月には、京都で大きな徳政一揆が起きる。「嘉吉の徳政一揆」だ。
正長の土一揆が、足利義教が将軍に就いた「代始」を機に発生した一方で、その彼が嘉吉元年六月、赤松満祐に暗殺(嘉吉の変)され、嫡男の足利義勝が七代将軍に補任されると、同年八月に京都周辺で数万人が蜂起。同月末に清水坂付近で民衆と幕府の侍所の兵が衝突した他、京都中で一揆が同時多発的に発生した。